研究会・研究発表の記録(2011年4月~2012年3月)
- [企画][メディアと情報/支援と復興/記憶と忘却]
- 日時:2011年12月16日 15:30~17:30
- 会場:京都大学稲盛財団記念館213号室
- 主催:東南アジア学会関西例会
- 共催:「災害対応の地域研究」プロジェクト
- 趣旨:本報告では、当事者が自身のメディアを持つことの意味について、報告者が関わってきたインドネシアと日本の二つの現場の経験から考えたい。
インドネシア・西ジャワ州ジャティワンギには瓦工場を活用したアートセンターがある。ここでは、職人たちがラジオを活用して自分たちの日々の悩みや村の抱える課題を発信する活動を行っている。車座による討論会の様子が収録され、そこで話し合われた内容はラジオを通じて隣村にも届けられ、悩みや課題をともに考える契機となっている。ラジオを通じて、マスメディアでは報じられないがその土地では必要な情報が発信され、届けられ、活用されている。
東日本大震災の被災地では、それまでビデオやカメラを使った経験を持たない人々がビデオやカメラを手に取り、身近な事柄について情報を発信する動きが盛んになっている。その背景には、東日本大震災後に自身の目の前に展開している現状と、テレビや新聞で報道されている情報とのあいだに大きな隔たりがあるという人々の実感がある。人々が記録した映像は、テレビ的な映像を見慣れた目には質が低いと感じられるかもしれないが、そうした状況を自覚したうえでなお、それまで映像による情報を受け取るだけの立場にあった人々が映像を使って自ら語り始めている状況がある。
流通範囲が限定的であり、また、必ずしも質が保証されないなかで、当事者が自身のメディアを持ち、発信しようとするのはなぜなのか。報告者が現在取り組んでいる「3がつ11にちをわすれないためにセンター」(http://recorder311.smt.jp/)の現場の経験を踏まえて、有事の際に当事者がメディアを持つことの意味や、災害の中で個人にできる取り組みについて考えたい。
- 発表者:清水チナツ(せんだいメディアテーク企画・活動支援室)
概要:インドネシアには芸術家の活動を促進する国家機関はないが、アーティストはオルタナティブ・スペースを活用して活動を行っている。個人が開設・運営している点できわめて私的なスペースであるにもかかわらず、多様な人々の相互交流が行われることで、結果として公の場が形成されている様子が見られる。食堂や作業場が提供され、食事や作業をともにすることで、初めて会う者どうしが場を共有する仕組みがある。また、施設の説明冊子や地域事情を紹介する地図が外来者向けにつくられている。アートセンターのラジオ放送は、アートセンターに集う人々と地域社会とを結びつけるだけでなく、自分たちの活動を発信するラジオ放送を持っているという設定によって、アートセンターに集う人々の相互交流や共同作業が促進されている。
自分自身のメディアを持つことが考えを深めたり他者と交流するきっかけをつくったりするという上記の経験を踏まえて、CREAMヨコハマ国際映像祭2009では、「受け取る身体を放れ、眼差す身体へ」をテーマに、人々が自ら撮影したり放送したりイベントをつくったりすることができるLAB Spaceを担当した。このイベントでは、いざ番組制作の機会が与えられても、参加者が日ごろテレビで見ている映像番組のスタイルを身体がなぞろうとしてしまう現象が見られた。無自覚に見させられている存在ではなく「眼差す主体」になるには、技術や設備だけでなく、意見交換をしたり作品をともに見たりする他者を通じた一定のプロセスや、それらの製作行為のための場をつくり、方向付けを行う者の役割も重要であるとの実感を得た。
2011年3月11日に東日本大震災が発生して以降、被災地の様子や被災後の人々の生活を撮影する動きが人々のあいだに広がっている。2011年5月より活動を開始した「3がつ11日をわすれないためにセンター」(わすれン)では、東日本大震災に関わる個人の映像記録の受け入れを行っている。ビデオカメラを携帯して目前の光景や人々の様子を映像に収めようとする人々の行為の背景には人それぞれの切実さがある。その内容は、避難所での生活術や被災者へのインタビューや、何の説明もなく被災地を移動する車からただ車窓の映像をおさめたものもある。人々が東日本大震災の当事者であるというとき、当事者としての層はそれぞれ異なっている。「震災復興アーカイブ」という公の場を開設し、人々の切実な思いから撮影される映像記録を「震災復興アーカイブ」の一部として受け入れる「わすれン」は、撮影せずにはいられない人々のある種個人的な行為を後ろから支えているといえる。
「わすれン」では、映像記録を受け入れるだけでなく、センターを訪れる人々の様子を見ながら、映像を見たり撮ったりする人々が出会い、交流する場を積極的に設けてきた。そうした交流の中から、ある人にとっては何の変哲もない記録映像の景色が別の人にとっては大きな意味を持つという経験も得てきている。
被災地では、被害が深刻な地域に近づくほど、自身の被災経験を「それほどでもない」と語る傾向がみられる。このような人々の態度は、東日本大震災による死者を究極の「当事者」として位置付けようとする態度でもある。それが結果として自らの被災者としての当事者性を封印しようとするものでないことを願っている。(西芳実)
- [企画][社会の再編]
- 日時:2011年11月12日 15:30~17:30
- 会場:京都大学稲盛財団記念館・中会議室
- 主催:東南アジア学会関西例会
- 共催:「災害対応の地域研究」プロジェクト
- 趣旨:本報告では、現在インドネシア第2の都市であるスラバヤ市を事例として、オランダ植民地時代前後の旧市街地の変化をカンポン(市内の一般居住地)の出現・立地による特徴から、都市構造について説明する。同時に、インドネシア独立後の居住環境整備事業として知られるカンポン・インプルーブメント・プログラムについて、オランダ植民地時代にさかのぼって、その前身である1930年頃に始まったカンポン改善事業について説明する。歴史研究だけでなく、フィールドワークで見つけ出した、かつての都市の痕跡を写真を含めて紹介したい。
- 発表者:山本直彦(奈良女子大学生活環境学部住環境学科准教授)
- 概要:インドネシアでは、オランダ領東インド時代より、住宅環境改善の取り組みとして低所得者居住地域を対象にした居住環境整備事業や集合住宅の開発が行われてきた。スラバヤ市での居住環境整備や集合住宅の開発の経験から、インドネシアで住宅整備を行う際に留意すべき点をいくつか指摘できる。一つは共用空間の活用である。住宅は、寝室を中心とするプライベートな空間と、台所や客間といった家人以外の人々の出入りを前提とした空間とに分けて考えられる。伝統的な住宅様式では、廊下、軒先、敷地内広場といった空間を後者にあてる例が見られ、集合住宅の開発でも共用空間の導入が有効である。二つめは、居住者の交替を前提とした空間構成をはかることである。寝室から直接外部に出る扉を設けることで、居住者の交代や家族構成の変化に際して寝室を切り離して部屋貸しすることが可能になる。三つめは、十分な宅地整備がされないまま家屋が密集している都市部で上水道の整備や宅地前道路の整備を行う際に、十分な住民参加を確保することの重要性である。スラバヤでは、水道料の徴収を地元住民に委託したり、道路整備の業者を地元住民に選定させたりして、公共スペースの整備・管理を住民主導で行わせることにより、居住環境整備を実現させた事例が報告されている。(西芳実)
- [企画][支援と復興]
- 日時:2011年10月14日 15:30~17:30
- 会場:京都大学稲盛財団記念館・中会議室
- 主催:東南アジア学会関西例会
- 共催:「災害対応の地域研究」プロジェクト
- 趣旨:現代社会では、18世紀にヨーロッパで起きた産業革命以来続く近代化・工業化が大きな価値を持っている。より多く、より早く生産と消費を繰り返し、またそれらを拡大させようとする方向に人類全体が向かっているともいえる。この西洋文明の支配的な社会の維持には膨大な電力が必要で、原子力が有効な発電手段とされる。東南アジアにありながら、近代西洋文明の影響を大きく受けている現在のインドネシアでも原子力発電所の建設計画が政府によって進められている。中部ジャワの農漁村であるバロンが、この工業化の象徴である原子力発電所の建設予定地である。しかし、このバロン村では計画に対する反対運動が起っている。その反対運動では、インドネシアで最大の宗教であるイスラムとイスラム以前のジャワの土着文明が大きな役割を果たしている。イスラム指導者たちは原子力発電所の建設を「禁止」(haram)とする宗教宣言を発令し大きな注目を浴びた。しかし、この決定はあくまで相対的なもので、状況が変化することにより覆る可能性を秘めている。その意味で、イスラム文明が近代西洋文明の「進歩」を批判的に検証し、新たな人類の方向性を示す理念となり得るかどうかは、疑問である。一方、ジャワ文明には現代の近代化・工業化一辺倒の社会傾向に与しない理念がある。それらは「精神性の重視」であり、「自然への畏敬」であり、「相互扶助の精神」また「清貧の思想」である。「原子力発電所反対運動」は単なる政治闘争ではなく、必要以上に電力を消費する社会のあり方に根本的な疑問を投げかる「理念」としての社会運動ということもできる。ジャワ文明というローカルな英知が今後の人類のあり方に選択肢を提示しているといえるのかもしれない。発表では、2010年2月にインドネシアの中部ジャワのジェパラ・バロンで行ったリサーチを元に以上のことについて検討する。
- 発表者:加藤久典(大阪物療大学)
- 概要:バロン村の原子力発電所建設計画への反対運動が多様な論理によって組織されていることが示された。バロン村の住民はこの地に聖人の墓所があることを挙げ、過剰な開発は不要であると主張する。バロン村に近い大都市ジュパラでは、イスラム教の指導者が原子力発電所建設を「禁止」する宗教上の勧告を発した。また、インドネシアの首都ジャカルタを拠点とする市民NGOも反対運動に参加している。討論では、反対運動の論理や担い手が錯綜している現状を踏まえて、建設予定地の現在の土地利用状況を調べた上で、反対運動に参加しているバロン村の住民にとって原子力発電所建設計画が具体的にどのような点で不利益をもたらすのかを検討してはどうかなどの意見が出された。(西芳実)
- [企画][支援と復興]
- 日時:2011年7月20日 14:00~17:00
- 会場:ジャパン・プラットフォーム(JPF)・会議室
- 主催:「災害対応の地域研究」プロジェクト
- 趣旨:阪神淡路大震災を経験した日本は、国内にボランティア文化を根付かせるとともに、NGOなどを通じて海外での人道支援活動にも積極的に関わってきた。両者は互いに異なる方向で専門性を磨いてきたが、東日本大震災では、海外で事業経験が豊かな人道支援団体が国内で支援事業を展開することによって両者が出会う機会を与えた。両者の出会いは日本の市民社会にどのような新しい可能性と課題をもたらしうるのか。
開発途上国では災害時に行政が十分に機能しないとして国際人道支援団体が地元の行政にかわって救援・復興の事実上の中心的な担い手となるのに対し、日本では広域かつ甚大な被害であっても行政が中心になって復興計画を立案・実施し、それを国内のボランティアが支える形で救援・復興が進められる。
国や地域ごとの文化の違いに左右されない国際標準型の支援を求めて努力してきた日本の国際人道支援団体は、日本の災害対応文化と出会ったときにどのようなコンフリクトを経験し、それをどのように乗り越えているのか。また、被災者をはじめとする地元社会の人々の声が直接耳に届くという状況は、人道支援のあり方にどのような影響を与えるのか。
国際人道支援団体の経験が日本の市民社会をどのように豊かにするのかを考えるとともに、東日本大震災の復興過程におけるより豊かな協働の可能性を開きたい。
- 趣旨説明:山本博之(京都大学地域研究統合情報センター)
- 報告1「JPFによる東日本大震災被災者支援事業」
(JPF事務局 椎名事業部長)
- 報告2「ピースウィンズ・ジャパンによる東日本大震災被災者支援事業」
(ピースウィンズ・ジャパン事業責任者 山本理夏)
- 報告3「難民を助ける会による東日本大震災被災者支援事業」
(難民を助ける会 坪井ひとし)
- [企画][支援と復興]
- 日時:2011年7月9日 15:30~17:30
- 会場:京都大学稲盛財団記念館・中会議室
- 主催:東南アジア学会関西例会
- 共催:「災害対応の地域研究」プロジェクト
- 趣旨:インドネシア東ジャワ州、シドアルジョの天然ガス掘削作業現場近くにおいて、熱泥噴出が発生したのは2006年5月29日である。しかしその発生から5年が経過した現在も、災害規模の拡大化やインドネシアの社会情勢などに起因して、効果的な対策が取られておらず、被災者支援、環境問題などの多くの課題が残されている。本報告では、2010年に実施した現地調査を元に、被害の多様な側面や政府の対策・補償の現状を明らかにし、さらにそれをめぐる関係機関の動向についての調査に基づいて現状改善の方向性を示す。
- 発表者:内藤咲希(大阪大学大学院人間科学研究科グローバル人間学専攻)
- 概要:インドネシア政府は、天然ガス掘削事業者に賠償金の支払いを命じる一方で、熱泥噴出を国家災害と認定した。ラピンド社は賠償金の支払いを開始する一方で、海外メディアに対しては自社による対応を「人道支援」と説明している。被害の種類や被害期間が多様であったため、賠償プランは複数となった。このため、被災者団体は連帯できず、分散する結果となった。本事例では、何者かに責任を負わせることのできる人為的事故とするか、責任を負うべき何者かがない自然災害とするかによって、災害への対応が異なることをインドネシアが経験した災害だったといえる。大規模な災害であったにもかかわらず、人為的事故の側面があったため、国連をはじめとする国際社会は人道支援の枠組で本災害への支援を積極的に行うことができず、インドネシア政府は国内で本災害に対応せざるをえなかった。本災害と並行して整備が進められたインドネシアの災害対策基本法では、災害は自然災害、社会災害、技術災害の3つを含むものとされ、災害を広く捉える姿勢が示されている。(西芳実)
- [企画][メディアと情報/支援と復興/社会の再編/記憶と忘却]
- 日時:2011年5月22日(日) 9:30~12:30
- 会場:東北大学片平さくらホール 2階会議室A
http://www.tohoku.ac.jp/japanese/img/profile/about/10/about1002/map_katahira_2010.pdf
- 主催:「災害対応の地域研究」プロジェクト
- 司会:山本直彦(奈良女子大学生活環境学部)
- 報告1:「東日本大震災をどう理解するのか」牧紀男(京都大学防災研究所)
東日本大震災は複合災害と呼ぶべき事態であり、1)東日本の太平洋沿岸域での津波による壊滅的被害、2)100万都市仙台市での多くの人的被害、ライフライン停止に伴う大規模な生活支障、3)原子力発電所の被害とそれに伴う多くの人々の長距離避難、4)長周期地震動・計画停電による首都圏の機能不全、5)サプライチェーンの支障、株価の下落等、日本さらには世界への被害の波及、といった社会的影響を同時発生させている。この災害の特徴はその「広域性」と様々な被害の「複合性」にある。 この災害から被害の特徴について報告すると共に、今後の取り組みのあり方について考える。
- 報告2:「東日本大震災における外国籍被災者と災害情報」山田直子(東北大学国際交流センター)
東日本大震災の発生時点、宮城県内には約1万6千人の外国籍住民が生活をしていたが、現在もなお、外国籍被災者の存在がほとんど可視化されていない。自治体やNGO、避難所の現場で働く人々も多くの場合、外国籍被災者の実態をあまり把握できておらず、外国人の大部分は震災直後に帰国したものと認識されている場合がほとんどである。このように外国籍住民の被災状況については、断片的な情報が散在するのみで、自治体、NGOともに外国籍住民の所在や現状について情報を集約し発信する機能を十分に果たすことが困難であったと思われる。本報告では、まず宮城県に在住する外国籍住民の特徴を理解し、震災前に外国籍住民がおかれていた状況をふまえ、自治体やNGOによる援助活動と外国人被災者の間に存在した情報ギャップについて考える。
- 報告3:「2004年スマトラ沖地震津波における津波犠牲者の弔い方」山本博之(京都大学地域研究統合情報センター)
インド洋沿岸諸国全体で約22万人、インドネシアだけで約16万5000人の死者・行方不明者を出した2004年12月のスマトラ沖地震津波(インド洋津波)では、遺体が津波で流され、しかも犠牲者数が多く、身元がわからないまま埋葬された遺体も多かった。このため多くの人々が地元の慣習に従って犠牲者を弔うことができないという思いを抱いたままとなった。遺体の再埋葬、復興住宅地の店舗、殉教者としての語り、集団埋葬地の扉、津波博物館などの事例をもとに、津波災害で生き残った人たちの犠牲者たちへの思いを辿りながら、想定外の事態によって突然失われた人々に対して残された人々がどのように弔おうとしてきたかを紹介し、心の復興のあり方を考える。
- 報告4:「2004年スマトラ沖地震津波における被災後社会の変容と再編」西芳実(京都大学地域研究統合情報センター)
災害は災害は人命や財産を奪うだけでなく、道路や地域行政などの社会的インフラにも大きな打撃を与える。また、支援活動を通じて、従来つながりのなかった外国や地域と新たな関係が結ばれたりする。このように、大規模な自然災害は、被災した地域社会に変化を及ぼすだけでなく、被災地とその周辺社会との関係や、被災地が属する国の社会制度、さらにはその国を取り巻く国際関係にまで大きな変化を及ぼす。2004年スマトラ沖地震津波の際には、武力紛争が続いていたインドネシア・アチェ州で死者・行方不明者が約16万5000人にのぼる犠牲者が出たが、救援・復興の過程で武力紛争は和平にいたった。アチェ州の災害復興を進めることが政治経済や国際関係の面でインドネシア国家全体にどのような影響を及ぼしたのかを考える。
- コメント1:今村文彦(東北大学大学院工学研究科)
- コメント2:アブドゥル・ムハリ(東北大学大学院工学研究科)
- コメント3:服部美奈(名古屋大学大学院教育・教育発達科学研究科)
- [企画][支援と復興]
- 日時:2011年5月14日 15:30~17:30
- 会場:京都大学稲盛財団記念館・中会議室
- 主催:東南アジア学会関西例会
- 共催:「災害対応の地域研究」プロジェクト
- 趣旨:南スラウェシ州レンケセ集落は、バワカラエン山山頂カルデラ壁崩落(2004年)により、生存基盤におおきな被害を受けた住民が、県が用意した再定住村への移住案を受け入れた一方で、先祖伝来の土地での復興を目指し被災地に残る選択をした住民がいた。ジョグジャカルタ特別州のニュー・ンレペン集落は、ジャワ島中部地震(2006年)の影響で発生した地滑りの被害を受けた複数の集落が集まってできたコミュニティである。分離と再統合を経験したふたつの被災コミュニティは、外部支援者とのかかわりの場としてまとまりながら、緩やかに復興に向かってきた。本報告では3つの事例を紹介しながら、被災した場所と再定住村におけるコミュニティ復興の差異と、不特定多数の外部支援者の役割について考える。
- 発表者:浜元聡子(京都大学東南アジア研究所)
- 概要:レンケセ村の事例では、被災したコミュニティが被災後に(1)被災前の居住地に残った人、(2)再定住村に移住した人、(3)再定住村以外の地区に移住した人の3つに分裂した。これは、災害や生業の立て直しに対する住民一人ひとりの関心や認識の違いに応じて個別の対応が可能だったことを意味する。レンケセ村の場合は、農地の交換や売り買いが可能だったことや、行政や国際援助機関、研究者らが多様な選択肢を用意したことによる。レンケセ村の事例は、災害によってコミュニティが分裂した側面から捉えることもできるが、同時に、住民一人ひとりの関心や状況の違いに柔軟に対応する仕組みがコミュニティにあったことや、外部者がそれを促進したことを評価するという見方もできる。
ドーム集落の事例では、被災後に新たに開発された復興住宅地区が結果として災害ツーリズムの拠点となっており、ジョグジャカルタ市街や中部ジャワ以外の地域からも人が訪れている。住民は、被災前の集落とのつながりを保ちながら、新たな産業として生まれた災害ツーリズムに積極的に取り組んでいる。
以上の事例が示すように、災害が及ぶ範囲は被災地だけにとどまらない。災害に関する情報は被災地以外の地域にも広まっており、被災を契機に関係性が作られるのは被災地に限定されない。被災からの復興を考える際には、被災した地域だけを見るのでなく、それ以外の地域の資源や技術、情報を取り込むことを検討すべきである。その意味で、直接被災していないが被災に関心を持つ「市民」の役割が問われている。災害オアシスやムラピ山博物館が来館対象者を地元の地域社会に限定していないのはそのあらわれであると言える。(西芳実)
- [企画][支援と復興]
- 日時:2011年4月10日
- 会場:京都大学地域研究統合情報センター・セミナー室
- 主催:京都大学地域研究統合情報センター共同研究「災害対応と情報」
- 共催:「災害対応の地域研究」プロジェクト
- 趣旨:東日本大震災の被災地に対する緊急人道支援はどのように行われたか。被災翌日に現地入りした「国境なき医師団」(MSF)の活動を紹介する。1971年に設立された国際人道支援団体であるMSFは世界各地で緊急医療支援活動を行ってきた。世界各地の紛争地・被災地での活動経験が豊富なMSFの目に東日本震災被災地はどのように映ったか。
- 発表者:斉藤潤(国境なき医師団)
- 概要:東日本大震災の被災地は現実のものとは思われぬほどの景観が広がっており、被災地域が広域であることともあわせて未曾有の災害であることは疑いない。にもかかわらず、日本の緊急支援体制は先進国でも類をみない迅速さで構築されていた。被災から48時間で、県庁や自衛隊などの日本当局によって情報収集と人命救助のユニットが構築され、MSFもこの体制と連携しながら救援が届いていない地域を中心に活動を広げていった。津波で寸断された道路は自衛隊が重機等を用いて迅速に開通させていたために、遠隔の被災地にも比較的早くに到達できた。阪神淡路大震災の際に、道路が寸断され被災地になかなか近づけなかったときの教訓がよく生かされていると感じた。医療支援については、津波被災地の特性か緊急医療の対象となる重症者は予想外に少なかった。かわって薬不足や日常的な医療サービスが受けられないことによる慢性疾患の悪化や被災による精神的なダメージが懸念される。(西芳実)
- [企画][支援と復興]
- 日時:2011年4月9日
- 会場:京都大学地域研究統合情報センター・セミナー室
- 主催:東南アジア学会関西例会
- 共催:「災害対応の地域研究」プロジェクト
- 趣旨:災害からの復興支援においては地域の事情に通じた地域研究者が一定の役割を果たしうる。本報告では、現地語および現地事情を習得し、国際協力・開発学を学んだ研究者が人道支援事業に従事することの意義と課題を考える。組織によって事業として展開される人道支援活動に参加する中で、地域研究者として地域社会との関係を事業にどのように反映させていくか。支援団体と地域社会の双方にコミットしながら、地域研究の手法やマインドはどのように生かされるか。2004年スマトラ沖地震津波被災地のアチェにおける支援活動の経験をもとに考えたい。
- 発表者:亀山恵理子(奈良県立大学)
- 概要:日本赤十字社の支援でインドネシア・アチェ州北部海岸の5県9ヶ村で実施されたマングローブ植林・地域防災事業に実施者として関わった経験を踏まえて、人道支援事業の現場で地域研究的視点を持っていることの強みが紹介された。
地域研究的視点を持っていると支援事業に携わる現地のアクターが多様な利害関係を有していること、また、現地アクターにとって支援事業者あるいは支援事業そのものがどのように見えているかを理解することができる。事業者は事業の実施が現地にどのように役立つかという自らのストーリーをもって事業に臨むが、現地アクターもまた独自のストーリーを持って事業に参加する。地域研究の知見があると事業者のストーリーとしてはうまく進められていないように見える事業でも、現地アクターにとっては意味のある事業となっていることが理解できる。事業者にとって事業は始まりと終わりがあるが、現地アクターにとって事業は人生設計や地域の歴史の途中で経過する一点である。
ただし、これは事業を現地アクターのストーリーに合わせて遂行すべきであるということではない。たとえば、怠業や脅迫といった形で事業者の関心を引こうとする動きが見られたときに、その背後にある意図を汲み取りすぎることは必ずしも得策ではない。外部からの支援者は自らが持ち込んだ支援の論理にしたがって事業を遂行し、もしそれで現地のアクターが適切な対応をしないときはそのまま撤退するという見識もありえる。相手の事情を汲みとるというとき、それが事業者のストーリーを完全な形で実現しようとするための方策になってしまっていないかをよく考えるべきである。(西芳実)