1つは、起こりうる事態をあらかじめ想定して、対応のしかたを事前に身体化させておくことである。非常時に何が起こるかを具体的に想定し、「ぐらっときたら火の始末」「地震が来たらまず机の下に」といったマニュアルをつくり、平常時から繰り返し訓練を積む。マニュアルの背景には根拠があり、訓練はその根拠を理解したうえで行うが、訓練を積むことにより、いざというときに理由を検討したり判断したりせず体を動かすことができるようになる。これが身体化である。
もう1つは頭の中にある「物語」を書き換えることである。非常時には想定外の事態が発生する。平常時の常識や考え方では対応しきれないだけでなく、経験したことがない新しい事態に直面する。平常時に想定された事態をもとに身体化された行動では対応しきれない。想定外の事態を理解し、受け止め、具体的な行動につなげるために必要なのは、身体化された行動ではなく、新しい事態に対応した新しい「物語」である。
行動の身体化と物語の作り直しはどちらも必要なものだが、社会によってどちらに重点が置かれているかは異なる。社会の構成員が比較的固定的で均質な社会では、社会に経験や知識が蓄積され、したがって先の予測が容易であり、このような社会では行動の身体化が重要とされる。これに対して流動性の高い社会では、構成員は多様で出入りが激しく、経験や知識が社会に蓄積されにくい。そのため構成員がそれぞれ異なる「物語」を持っているため、そのような社会ではそれぞれが抱く「物語」の有効性が常に問われることになる。別の言い方をすれば、常に新しいものを作り続けることで想定外の状況に対応しているということでもある。
災害などの非常事態においては、身体化された行動よりも「物語」を柔軟に書き換える力が必要である。「物語」を柔軟に書き換えるためには、過去に存在したさまざまな物語のなかから必要なものを選び取ることとともに、それらの一部を忘却することも必要となる。
災害によって壊され、失われるのは生命や財産だけではない。大切な人々との思い出や住み慣れた土地への思い出を含め、人々の心の中にある世界観も災害によって大きく損なわれる。かけがえのないものを失った事実をどのように受け止めればよいのか。あるいは、生き残った自分の人生をどう意味づければよいのか。事実を事実のまま記録して記述するだけでは解消されない思いがある。災害に直面した人々は、心の安寧を得るため、個人で、あるいは集合的に、過去の事実を忘れたり記憶を作り直したりする。区切りとなる式典などの開催、記念碑や博物館の建立、芸能などを通じた体験の共有などにより、人々は災害を社会に位置づける。そして、社会に位置づけられた災害を語り継ぐことによって日常を取り戻していく。