研究会の記録(大阪大・第1回研究会)
- 日時:2009年12月19日(土) 午後2時~5時
- 会場:大阪大学吹田キャンパス人間科学部東館106教室
http://www.hus.osaka-u.ac.jp/access/access.html
- 共催:大阪大学人間科学研究科グローバル人間学専攻
内容
話題1:山本博之(京都大学地域研究統合情報センター)
「先行研究との対話――東南アジアのナショナリズム論を例として」
話題2:柳澤雅之(京都大学地域研究統合情報センター)
「地域理解のための自然科学者によるアプローチ」
話題3:河森正人(大阪大学大学院人間科学研究科グローバル人間学専攻)
「創られるコミュニティ――地域研究と開発研究の対話」
趣旨
グローバル化の時代とは、個人が世界と向き合うことが求められる時代でもあります。かつて国際社会では国家どうしの関係が基本だったため、個人が外国でトラブルに巻き込まれたときには国家どうしの関係を通じて解決されました。戦争している国に足を踏み入れない限り、戦闘に巻き込まれることはないはずでした。しかし、今や国家に頼れないことが共通の理解になりつつあります。個人が外国でトラブルに巻き込まれると、それは自己責任だと言われるようになりました。外国人との間で「話せばわかる」が通じずに困っても誰にも頼れず、個人で解決しなければならないのです。
このことは、外国に行かない人にも決して無関係ではありません。国境を越えた人の移動が盛んになっているので外国に行かずとも外国人に会う機会が増えたせいもありますが、同国人どうしでも共通のルールが通用せずに「話せばわかる」が通用しない状況が増えているためでもあります。このような状況では、慣例や多数決だけでものごとを決めても有効に働きません。「場」に知識や経験が蓄積されないため、あるときある場にいる人たちの間で合意が得られても、その翌日にはその場にいる人の半分が入れ替わってしまうかもしれないためです。このような状況にどう対応するかは、今日の世界に生きるすべての人の目の前にある課題です。
この課題に対応するには、さまざまな分野での知識や経験を持ち寄り、それをその社会の特殊性とすることで満足するのではなく、そこから現代世界をよりよく生きる知恵を引き出し、それを地域性や時代性を超えて一般に通用する知恵として組み直すことが必要です。世界中から経験を持ち寄るのはもちろんですが、現代だけでなく過去の経験も参照する必要があります。このことは地域研究者が行ってきたことにほかなりません。ただし、地域研究者の間でも背景となる学問分野によって方法が異なり、地域研究全体で共通する方法が確立しているわけではありません。
この研究会では、地域研究に携わっている国内の大学を訪れて、地域研究の現場にいる教職員や学生と意見交換を行うことを通じて、地域研究の多彩な姿を捉え、地域研究について考える共通の枠組みを作りたいと思っています。第5回研究会は大阪大学で行います。この研究会はどなたでも参加できますが、地域研究に携わる大学院生や若手研究者の参加を特に歓迎します。
報告要旨
- 「先行研究との対話――東南アジアのナショナリズム論を例として」(山本博之)
実践と研究の結びつきを考える上で重要なのは、研究が学会発表や論文執筆によって評価されることである。実践経験を多く積み、深い知識や洞察があっても、適切な方法で発表しなければ学術研究の成果として評価されない。理論的枠組を身につけた上で事例を分析する学問分野と異なり、事例研究を積み重ねて理論的枠組を導く地域研究では、データはあってもどのような議論を展開すればよいかわからないという悩みがしばしば生じる。この悩みに対しては、これまでに何が課題とされてどのような議論が戦わされてきたかを先行研究から読み解くしかない。東南アジアのナショナリズム論を例に、論文に直接書かれていない課題と議論を読み解くことを試みる。
- 「地域理解のための自然科学者によるアプローチ」(柳澤雅之)
地域開発や災害復興支援に従事する場合、その地域の自然環境を理解することは不可欠な作業である。しかし、自然環境をどの程度理解する必要があるのかは、対象地域によっても研究分野によっても異なる。本報告では、自然科学者による地域研究を題材にして、自然科学の手法や知見が地域理解にどのように活かされているのかを考える。自然科学の手法で取得される厳密な客観性と再現性が求められる情報と、主観的で歴史的再現性の少ない地域社会の情報とをいかに組み合わせるのか、自然環境が地域の社会経済的変化をどのように方向付ける可能性があるのかを考える。
- 「創られるコミュニティ――地域研究と開発研究の対話」(河森正人)
高齢化や自然災害の増加といった新たな課題群に直面する東アジアの地域コミュニティにあって、今や国家や国際社会(国際機関やNGO)は健康や安全の自主管理という名の下、様々な仕組みをその内部に埋め込もうとしつつある。こうした外からの「制度(institution)」の接合プロセス(=開発)を通じて、まさにコミュニティは創造され、新たな意味を付与されつつあるといえよう。しかし、この様々な仕組みはあくまでも「外形標準」であり、住民は日常性と折り合いを付けながらこれを受容したり、アレンジしたり、あるいはこれに抵抗していくことだろう。本報告ではコミュニティを軸にしながら地域研究と開発研究の対話の方向性を探る。(参考文献:河森正人『タイの医療福祉制度改革』御茶の水書房、2009年)
質疑応答・討論
グローバル人間学専攻について
- 大阪大学にグローバル人間学専攻ができて2年目になる。地域研究にどう取り組むか、どう関わるかは全体の課題。大阪大学の中で地域研究の輪を広げられればよいと思う。
- グローバル人間学専攻の2つの講座に関して、人間開発講座が華々しいのに対して地域研究講座は地味だという印象をこれまで持っていた。河森報告を聞いて、地域研究講座では華々しくない方面から開発に対して重要な貢献がなされていることがわかり、力強く感じた。
山本報告に対して
- 山本報告の先行研究の捉え方は、冒頭の地域研究についての説明の中の「地域研究の三層構造」ではどのように位置づけられるのか。
対象となる先行研究の多くは地域研究の第二層の右側、つまり特定の地域にコミットした研究の成果であるため、第二層の地域研究との結びつきにおいて捉えられることが一般的だろうと思う。ただし、先行研究を整理して学説を引きだすという意味では、3つの層の全ての研究活動に関わっている。(山本)
- 山本報告が紹介した土屋論文のフロンティア空間について、自分も同じようなことを感じた。国家の官僚制の部分を飛ばしているのは、国家形成に至る思想を追及してきたため、ご自身の中で国家官僚制の部分で議論がうまく繋がらなかったのではないかと思った。
自然科学を取り入れた地域研究
- 自然科学者が地域研究の分野で学術界に貢献するにはどのような機会と可能性があるのか。京都大学のように理系研究者が多数を占めていれば同分野の研究者が多いだろうが、文系が多数派を占める研究組織では理系研究者は個人として研究発表するしかない。私の専門である高分子物理の分野では基礎研究でないと学術界への貢献にならず、地域研究を視野に入れた研究内容で貢献するのは難しい。
モノを開発したり世界の中で新しいものを見つけたりすることのように世界の最先端を目指すのであれば個人では難しいかもしれないが、それを現実の地域社会から探してくるなら高分子物理の専門性を地域研究に生かすことになるのではないか。機能性食品が地域社会ごとにどのような役割があるか研究することも地域研究として意味があるかもしれない。ただし、そういった研究と基礎研究を一緒に行うのは難しいかもしれない。「高分子物理でやりたい」という思いがあるから悩むのかもしれない。(柳澤)
地域研究と基礎研究を一緒に行うのは難しいという話について。農学は地域研究になじみやすいかもしれないが、高分子物理を考えるならば、私は専門性を研ぎ澄ます方向での教育を受けてきたので、理系では最先端の研究をしないと第一線の研究者として認められないという現実があり、自然科学系の多くの専門分野がそれに当てはまるだろう。これに対して地域研究が理系に求めるのは、実のところ最先端ではないことが多い。例えば、工学的テクニックを持つ研究者による地域研究にも結びつく優れた成果だと私が思ったものとして、リモートセンシングの技術を利用して、拡散方程式に気象条件を加味して南米の水銀の汚染度を測るものがあった。しかし、リモートセンシング関連の学会では、この発表は小セッションになっており、他のセッションに比べて圧倒的に聴衆が少なく、学会全体で注目される位置づけにはなかった。これから研究者になる学生に文理の両方を備えるようにと教育することはできるかもしれないが、すでに研究者になっている自分のような存在はどうすればよいのか。学際的な環境の中で理系が積極的に関われるような、理系の意義が認められるような状況を作るにはどのような方法があるのか。最先端だけが科学でないという考え方も必要だということは承知しているが、これまでの自然科学の共同研究者にはそのことが理解してもらえず、自分が地域研究に目を向けようと思っても、自然科学者と共通の話ができないという悩みを抱えている。
それは地域研究の学会の話か。(柳澤)
地域研究ではなくリモートセンシング関連の学会。先ほど挙げた南米の事例は、学会の他の研究発表と同様に高度のテクニックを使って地域研究にアプローチしていて意義は大きいと思うが、その学会の主流である宇宙を扱う人たちにとっては、南米などの事例は誤差が大きく、さらに地域研究的な意義が理解されていないため、関心の対象外に置かれてしまうのだと思う。地域研究が学会ごとやディシプリンごとに分断されてしまうとそれぞれの場で適切に評価されることが難しく、特に自然科学系の場合はそうだろう。ディシプリンで区切られた学会にも地域研究のセッションができてもいいのではないか。同じように、グローバル人間学専攻では基礎研究の話ができる学生も同僚もいないということも深刻な悩みになっている。地域研究にもっと積極的に理系の研究者を取り込める方策はないものか。
確かに農学は地域研究に馴染みやすい面があるが、それ以外の理系の分野でも地域研究を行う人も少なくない。生態学でも、生態システムだけを研究する人もいるけれど、半分ぐらいの研究者は人間社会を含めた生態を見ようとする人もいる。生物多様性にしても、そのメカニズムを研究する人は世界での最先端を目指しているが、多様性そのものにも人間が関わっているから人間が関わることで生まれる多様性を生物多様性に含めるという学会や分野もある。もっとも、材料科学の中で人間社会の側面を取り込むのは、具体的にどういう研究をしているのかがわからないとイメージしにくいところがある。(柳澤)
基礎研究と地域研究は別物と考えればいいという考え方もあるかもしれないが、時代の流れもあるかもしれない。私は高分子物理の中でも従来から生命体を扱って研究しているが、かつては合成が注目されていたけれど、今は環境問題の到来により逆に天然素材が注目されている。このように、時代の流れで、人の暮らしを扱う地域研究が理系の専門的学会の中でも積極的に評価されていくかもしれないという気持ちもある。
- 理系では共同研究が中心だが、これまで私が理系で行ってきた共同研究の人脈や手法が文系主体の地域研究ではうまく使えずに困っている。たとえば、地域研究の共同研究では理系でもまず現地語がわからなければいけないという話になる。
確かに文系と理系では言葉に対する感覚が違う。文系は言葉が巧みだが長い。それに対して理解は言葉が簡潔だがセンシティブさに欠ける。たとえば、ある国際会議で外来種の侵入のことを理系の研究者が「invasion」と言った。日本の生態学では1950年代や60年代には外来種を「enrichment」と捉えていたが、外来種の受け入れに批判的になって「invasion」と捉えるようになっており、理系研究者としては違和感はなかった。ところがこれを聞いた文系の研究者が、それは移民を侵入者と呼ぶようなものだと怒り出した。人間の話ではないと言ってもなかなか理解されず、話がかみ合わずに困ったことがある。この例のように、社会的にセンシティブな言葉があることを理解しないと話が通じないため、理系も言葉の使い方を気にすることは必要だろう。他方で、文系の人たちについては、各地域の社会的経済的な理解が往々にして社会学や経済学の分野ごとの言葉に依存している部分が多いような印象を受けている。自分が使っている言葉が他の地域や他の学問分野で使われている言葉とどの程度同じかを考えながら話してほしいし、さらには理系の人がどう受け止めるかも考えながらわかりやすく話してほしいと思うことがある。(柳澤)
「全体的な観点」について
- 河森報告で出された「ホリスティック(全体的)な観点」とは、人類学でも1920年代に出されていた概念。そこでは経済システムや信仰や人間関係を前提的に見ていき、進化論に対する懐疑派として出てきたものだが、今日の河森報告ではどの程度までの包括性を念頭に置いているのか。
政府と村人の間に地方政府があり、地方政府と村人の間に保健ボランティアがいるという複数のアクターがいる。それ全部のことを全体性と呼んでいる。(河森)
制度面での全体性ということか。
そう。ただし制度を静態的に捉えるのではなく、日々の相互関係の中で構築されていると捉えている。政府と村人も、互いに協調関係を結ぶかもしれないし対抗関係を結ぶかもしれない。その中で制度が立ち現われてくる様子を捉える。(河森)
- 学生に全体性についてどこまで説明できるか悩んでいる。タイの農村の調査で、自分の研究テーマに直接関わらないことでも何でも知っていないとタイの農村のことがわからないと学生に言っている。ただし、全体的な理解とは、その村についてなのか、東北タイについてなのか、それともタイ全体についてなのかと考えていくと、学生に「ホリスティックな理解を」と言うのは難しいとも感じる。別の例で言えば、首都バンコクの一流ホテルに泊まって車を借り上げて調査地に行って村の調査をしようとする学生に「一流ホテルに泊まっていてはタイの全体像はわからない、安くて汚いところに泊れ」と言うとして、本当に安くて汚いホテルに泊まることにホリスティックな意味があるのかと問われても答えられないだろうと思う。(柳澤)
村の中だけ見ても村のことはわからない。政府との関係、海外の機関との関係、外国人との関係などいろいろな角度から見る必要がある。確かにホリスティックはどんどん広がっていくが、それを言葉で説明するなら「区切りがないもの」としか説明できない。実際にはいろいろな相互関係の中で見ていくしかないと思う。(河森)
- ホリスティックはどんどん広がっていく。たとえばミャンマー移民を見たとき、移民先は国境を越えて広がっていくため、もしホリスティックに見ようとするなら全体をとらえることが不可能になってしまい、逆にパーシャルにしか描けないという状況が生じる。どこかで区切らないとホリスティックにならないのではないか。
地域研究のように、特定の現場から研究を始めようとすると、一般に調査の最初の段階でほとんどの人にホリスティックな理解は得られていない。現地で得たあるトピックの意味を突き詰めていき、その過程でホリスティックなものが得られていく。論文の書き方としてははじめにホリスティックな観点をもって書き起こしてから個別の事例に移るという手順になるけれど、地域研究では実際の調査手法はその逆の方が一般的ではないか。特定の条件のもとで得られた状況からホリスティックな理解を探していくことの方が重要ではないか。(柳澤)
- ホリスティックがどこまで行くのかはリサーチクエスチョンにもよるし、先行研究があるかないかにもよる。
対象を特定のディシプリンによって切り取るのではなく全体性で捉えるべきという主張には賛成だし、他方で全体性と言ったときに際限なく領域が広がってしまうのではないかとの懸念も理解できる。あることがらについて調査研究する上では、全体性で捉える努力をしながらも、その領域をどこかで区切る必要がある。どこで区切るかは、国境などの行政上の区画が適切かもしれないし、それとは別の区画を考えた方がよい場合もあるかもしれない。いずれにしろ、どの領域までで区切りとすべきかは研究対象や研究テーマなどによって異なる。そのため、「どの領域まで広げればいいのか」を考えるのではなく、個別のテーマに対して「どの領域までを扱うのが妥当か」を常に意識するべきということなのではないか。(山本)
- 河森報告でホリスティックとは制度のことが念頭に置かれていた。私が考えていたのは、人々の考え方、概念、死生観、もし寺が重要だとすれば制度や物理的に重要なのか精神的に重要なのかの違い、伝統的な医療観と近代的な医療観など。思想・考え方という文化的側面と制度はどう関わっているのか。
- 医療でも、伝統医療のやり方、近代医療以前のやり方、近代医療では手に負えなくなったときのケアなどの考え方の関係性を見ていくと、他のところで参考になることが出てくるかもしれない。伝統的と言われてきたものの内実を詳しく見ていくと「伝統と近代」という垣根が取れるかもしれない。あるいは、近代的なコンテクストにいる人が自分たちを近代とする考え方で伝統を見たときにどう捉えるのかといった考え方を勉強することで見えてくるものもあるように思う。
伝統と近代の問題は地域によって違う。タイの医療について言うと、医療が相当程度に商品経済の中に組み込まれていて、伝統とは切り離して考えた方がよいと思っている。(河森)
治療師と医師、媒師と医師はどうとらえるのか?
現地にも霊媒師はいるけれど、それは消費社会の中の世界として理解できる。(河森)
- これまでの議論では2つの異なるホリスティック概念があると思う。河森報告では、タイの社会福祉の現状は先進国の図式を持ち込んでも見えない、見えることは見えるが隠されるものもある、だから現実を捉えるにはありのまま丸ごと捉える必要があるという話だった。ただし、それで接近できる現実は1つの事例研究に過ぎないので、それを意味づけるにはそれを包む込む全体が必要であり、これがもう1つのホリスティックということになる。
地域研究における言語と翻訳
- 河森報告で、「先進国からの研究者にはわからない」「タイ語がわからないとわからない」という話があったが、それは言語だけの問題と考えてよいのか。もしそうならば、よい通訳をつければ問題は解消されるということか。
通訳をつけただけでは問題は解決しない。通訳をどこに連れていくかは研究者の判断が関わる部分で、地域の事情がわからないと十分に対応できない。通訳を使えばそこに書かれていることは理解できたとしても、地域の文脈がわからないとその内容は理解できない。(河森)
通訳だけでは不十分で地域の専門家だからこそわかる部分があるとしたら、それは何であって、どのように身につけることができるのか。
それはセンス。センスを身につけるにはアンテナを張るしかない。現地で新聞を読んだり人と話をしたりしてアンテナの感度をよくしておく。新聞も、英語新聞を読むだけで現地語新聞を読まなければ全体像は見えてこない。タイの保健政策の例をとれば、英語の論文を読むだけではわからず、保健省のタイ語の資料を何十年分も読んでいかないと全体像は見えてこない。(河森)
仮に情報学などの技術の進歩によってこれまでタイ語で書かれていた大量の政府文書が英語または日本語に自動翻訳できるようになったとして、それをタイの事情を知らない専門家が読んで研究したら同じような結論に達すると思うか、それとも違う部分があると思うか。
翻訳を見ても、そこに書かれている事実はわかるだろうが、背景や事実どうしの関係がわからないと全体像が理解できないため、その地域に通じた研究者と同じレベルで理解はできないだろう。(河森)
- どのような通訳を連れていくかも大きい。通訳のレベルもそうだが、通訳自身の属性も大きく関わってくる。インタビュー相手が研究者である自分をどう見るかは、通訳がその村出身か、その村に何度か来たことがあるのか、何歳ぐらいか、どの部族の出身か、男性か女性かなどのいろいろな属性が関わってくる。専門の通訳なのか、もともとその地域で働いている人なのか、実は研究者でその国やコミュニティに対する知識を持っているのか、あるいはスペイン語はできるけれどラテンアメリカについて知らない人なのかなどの違いによっても、単語や表現の選び方や、こちらが言った概念をどこまで捉えているかが変わってくる。翻訳機械を使って言葉を置き換えれば済むのではなく、通訳にはそれ以上のものが含まれる。通訳の質はフィールドワークの質にも大きく影響してくる。
- 本当は自分も対象地域の言語がわかる状況で通訳を連れていくのがいいかもしれない。同じ本でも翻訳者によって訳が違うことがある。たとえ単純に直訳する場合であっても、通訳は単に言葉を置き換えているのではなく、コンテクストが入ってくる。ハイコンテクストの言語とローコンテクストの言語の間では付け足さなければならない言葉が違ってくる。
開発と教育・研究
- 開発と教育の関係についてどう考えるか。
教育の場で学生に対して「この研究を読んだか、あの研究は読んだか」と質問しても学生がしどろもどろになることが多く、それだけやっていても、学生にとってはおもしろくないし教師にとっても大変なだけ。それよりも、学生が研究している現場で教師が一緒に状況を捉えてやることが大切ではないか。教師が理論や先行研究を網羅した上で現場を見るとどのような不備が見えるのか、それをもう少し汎用化するためにどうすることができるのかを学生と一緒に考えることができ、そうすると教育にもなるし教員にとっても苦にならないのではないか。(柳澤)
理系と違って文系では論文の共著は一般的でないため、学生が集めたデータを分析する枠組を教師が提示して論文が書かれた場合、それはだれの成果かという問題が生じる。もし教師が自分の名前で発表したら教師が学生のデータを取ったという話になりかねないという問題がある。(山本)
研究と社会貢献
- 研究と社会貢献についてどう考えるか。
文化人類学や農学研究で村に入った人はたくさんいるが、その多くが1980年代から90年代にかけていろいろな形の開発プロジェクトに巻き込まれている。特定の地域だけでなくいろいろな地域で起こっている。それぞれの研究者は「たまたまプロジェクトに巻き込まれた」と考えているようだが、実際は世界規模での経験となっているのではないか。世界規模の大きな傾向の中で研究者が関わるというのも似ている。村に関わると村人たちがその研究者のネットワークを利用してプロジェクトとは少し違うことをしていくとか、研究者がプロジェクトに関わることを通じて従来持っていた村に対する理解を検証できるし、村人が研究者を利用する側面も見えてくる。このことは割と広く見られることで、これからいろいろな形で研究に表れてくるだろう。この方向を考えていくと研究の次の発展につながるかもしれないと思う。(柳澤)
先進国と途上国で起こっていることは別の見方が必要だと言ったが、先進国と途上国で現象的には同じことが起こっている。精神性と言えば、最近の日本の地域社会ではスピリチュアリティや神社仏閣が重要だと言われているが、途上国でも現象としては宗教が出てきている。ただし、宗教やスピリチュアリティとしては同じに見えても、地域ごとに中身は違うかもしれない。よその地域の文脈で見てはどうかを考えることには途上国から先進国に発信する可能性があるように思うが、これも広い意味での社会貢献だと考えている。(河森)
地域研究方法論研究会について
- 方法論研究会の「文理接合班」と「実践的活用班」とはどのようなことを行っているのか。
「文理接合班」の正式名称である「自然科学者による地域研究方法論」が示すように、自然科学者による地域研究と地域研究者による自然科学のアンバランスの中で、自然科学の中から考えていこうとする研究会。具体的な課題は、地域の特性をよくわかっていない自然科学研究者のデータをどう利用するか。調査研究のプロセスまで見ないとデータが信頼できないのか、地域事情を理解した人なら出てきたデータを見れば信頼性が判断できるのかなどといった問題を、個別事例を通じて考えている。(柳澤)
実践的活用班について。災害対応を事例に、地域研究者がプラットフォームになって防災や人道支援など異なる専門家が集まって分野横断的な情報や知識の共有ができないかを考えている。ただし、専門家がただ集まって持ち出しで行うのではなく、それぞれのアクターが自分たちに欠けている部分を補える場となることを目指している。防災の専門家は、日本の防災の知見が外国にはそのままでは移植できないと考えている。人道支援の専門家は、現地情報が断片的にしか入手できないときに全体像をどう把握するかという課題がある。地域研究では、平時の情報蓄積だけでは突発的な事態における社会の状況が理解できず、緊急時に現場に入った人の情報が重要になる。それぞれ自分たちに欠けているものを補い、相手に貢献するとともに自分の専門性を豊かにすることができる場を作れるのが災害対応。地震を契機に被災地域の専門家と他の分野の専門家が集まり、情報や意見を交換することを積み重ねる場と仕組みを作ろうとしている。(西)
- 「現地語なしの地域研究」とはどんなものか
三層構造で言えば第三層がそれに当たる。ただし、「現地語なしの地域研究」について気付いたのは最近のことで、これまでこの研究会で積極的に研究対象にしてきたわけではない。これから関係する学部や学会での試みをリサーチしていきたい。これと別に、第二層の右側(地域にコミットした地域研究)の各研究が、相互に、あるいは他分野の研究と結びつく方法を考えた場合に、この研究会の各研究班はそれに関係しているが、それらの活動の中に地域研究を行う上での心構えのようなものを考えることも含まれている。この方面で検討を進めていくと現地語なしでの地域研究の方法が出てくるかもしれず、そのことも念頭に置いてこの研究会を進めていきたいと思っている。(山本)
参加者アンケート
1.所属・立場・年齢
- 所属
大阪大学・人間科学研究科グローバル人間学専攻(6)
大阪大学・人間科学研究科(1)
- 立場
修士課程(3)
博士課程(3)
教員(1)
- 年齢
60代(1)
30代(2)
20代(3)
記入なし(1)
2.経歴
3.この研究会についての情報をどこで得たか(複数回答可)
- 教員から(6)
- JCASのメルマガで(1)
- 学内のMLで(1)
4.この研究会への参加経験
5.どのような関心から研究会に参加したか
- 授業の一環で。
- 授業(地域研究)の一環のため。
- 地域研究の方法論について学びたかったから。
- 地域研究の理論を知りたいと考えたので。
- 地域研究をする上でどんな方法論を取り入れたらよいか、実際に研究していらっしゃる先生方のお話を聞きたかったので。
- 地域研究の「地域」とは?の答えを求めに来ました。
- 地域研究にどのような方法があり、それがどのように実践されているか実際に話を聞いてみたかったから。
- 地域研究に関わる研究者が各自のフィールド、専攻を越えてどのように地域研究を捉えているかを学ぶため。
6.研究会に参加しての感想
- いろいろな分野からの地域研究のアプローチ方法が聞けてよかった。
- 漠然としていたものが形になり、理解できました。
- 地域研究についてみんな漠然と理解している部分が多かったことがわかり、興味深く感じた。
- 対象とする地域だけを見るのではなく背景も見ること、他の学問分野も視野に入れることなどが大切であることが改めてわかりました。
- 先生方の活発な議論を聞いて、ものすごく勉強になりました。
- 地域研究はその対象地域や研究の範囲が広いと改めて思いました。中でも、理系の立場からの地域研究については、発表に初めて触れたので興味深かったです。
- 異分野の研究者が地域研究との接点を求めて議論を交わす刺激的な創造の場であると感じました。
- アットホームな議論の雰囲気も魅力的です。
7.地域研究について日頃感じていること/考えていること
- 私の研究対象地域もとても狭い世界の話なので、どう全体と結び付けていいのか考えます。
- 研究結果をいかにして社会に還元できるのかということです。
- 私の研究対象地域はメキシコですが、日本人の私がメキシコを研究する意味や、独自性がどのように生かせるかを常に考えています。
- 私は、自分の研究対象がヨーロッパの先進国といわれる国なので、一般的に言われる地域研究とのギャップを感じることが多いです。いわゆる発展途上国が対象となることが多い「地域研究」ですが、もっと広範な意味でも使われることにならないかなと思います。確かに始まりは「先進国」が「後進国」を研究することであったとは思いますが、1つの国の制度や現象を研究するためであっても、その国の歴史や文化といった包括的な研究、つまり地域研究は非常に重要だと思うので。
8.この研究会への要望・改善点
- 学生が少ないように見受けられたので、広報などで学生を呼び込みしてはどうかと思います。
- 質疑応答は発表のすぐ後にした方が盛り上がると思います。
- 発表内容がとても深いのでもっと時間を長くできたらいいなと思います。
- 各自の発表時間を短縮して議論の時間を長くするべき。明確なタイムスケジュールとタイムキープされた進行。
- 今回は京大の先生方がいらしていましたが、もっといろいろな立場の人(学外の先生や研究者、国内外でフィールドワーク等に関わった経験がある通訳者や研究対象者なども?)に参加してもらい、もっと様々な意見や見方(フィールドが違っても)を向き合わせるとよいのではないでしょうか。