研究会の記録(早稲田大・第2回研究会)
- 日時:2009年2月10日(火)
- 会場:早稲田大学早稲田キャンパス 26号館(大隈記念タワー)
内容
司会:小森宏美(京都大学地域研究統合情報センター)
話題1:山本博之(京都大学地域研究統合情報センター)
「地域研究では「思い入れ」をどう表現するか」
話題2:柳澤雅之(京都大学地域研究統合情報センター)
「地域研究は科学か?」
話題3:久保慶一(早稲田大学政治経済学部)
「『フィールドワーク』を分解する――バルカン政治比較研究の視点と経験から」
趣旨
人はなぜ地域研究に引きつけられるのか。「就職がいいから」でも「研究費がとりやすいから」でも、ましてや「ほかの研究科の入試に落ちたから」でもないはずです。地域研究は、研究者、研究対象、そして研究成果を利用する人々のいずれにとっても魂の救済になる学問実践なのだという希望が見えたために違いありません。
ただし、その希望が一時的に見えにくくなっている人もいるかもしれません。その原因の1つには、地域研究では何をやればいいのか、何をやったら地域研究として認められるのかについて、明確な基準がわからないということがあるのではないかと思います。
このことは、学問的ディシプリンとしての地域研究の確立と関係しています。「地域研究はディシプリンであるかないか」についてはいろいろな立場や考え方があるでしょうが、この研究会ではこの問いはひとまず棚上げにしておきます。その上で、「地域研究」という名前の学問分野が10年後も20年後も残るようにするにはどうすればいいか策を練るのではなく、「地域研究」の名のもとで現在行われているさまざまな営みをとり出し、次世代に継承可能な形で言葉で記述することがこの研究会の目的です。
この研究会で取り組むべき課題はたくさんありますが、いずれも地域研究に携わる組織や人々の協力なしに実現できません。研究会の本格的な活動に先立って、まずは地域研究に関連する大学院の研究科をいくつか訪れて、地域研究を教えたり学んだりしている現場の人たちとの議論を通じて、地域研究の方法論として何が求められているのかを考えたいと思います。
東京大学駒場キャンパスでの第1回研究会に続き、第2回となる今回は早稲田大学早稲田キャンパスで行います。この研究会はどなたでも参加できますが、地域研究に携わる大学院生や若手研究者の参加を特に歓迎します。
報告要旨
- 「地域研究では「思い入れ」をどう表現するか」(山本博之)
定義に従って切り取られた対象を相手に厳密な検証を進める型の研究と異なり、地域研究は(たとえその対象がより大きな全体社会の部分集合にすぎないとしても)対象に全体性を見出そうとする。そのためもあって、地域研究では書き手の「解釈」や「思い入れ」を完全に排除して結果を出すことは現実的でない。では、地域研究では「解釈」や「思い入れ」をどのように研究に組み入れてきたのか。心を打つ論文は、よく読むと、議論に飛躍があるのではないかと思える箇所がある。実はその部分こそが著者がその論文で一番思いを込めた箇所で、「泣かせる」部分になっていることが少なくない。この報告では、東南アジアのナショナリズム論からいくつかの論文を例にとり、「ぼかしどころが泣かせどころ」の実際を味わいつつ、先行研究に隠された課題を読み解く試みとして、自らの研究を例にとって考えてみたい。
- 「地域研究は科学か?」(柳澤雅之)
厳密な客観性と再現性が求められる自然科学は、地域ごとに状況が異なり事象の再現性もきわめて少ない地域社会の研究をどのように進めてきたのか。本報告では、自然科学者による地域研究を題材にして地域研究の「科学」性について検証することで、地域研究の方法論を考えるというアプローチをとる。客観と主観、再現性と特殊性、あるいは普遍性と個別性の二項対立を超えて地域研究を推進するためには、ディシプリン間の整合性、あるいはディシプリンと地域社会の論理の整合性をとり、地域社会をより広域の社会の中で相対化することが必要である。
- 「『フィールドワーク』を分解する――バルカン政治比較研究の視点と経験から」(久保慶一)
地域研究の方法論の確立にとっての一つの重要課題は、要となる「フィールドワーク」の方法論の確立であろう。しかし、実施方法が千差万別のフィールドワークについて、無限の固有性を越えて方法論を確立することは可能だろうか。本報告は、この点について考察するために、「フィールドワーク」を報告者なりに分解することを試みたい。本報告は、それを二つの点から試みる。第一は「フィールドワーク」と「机の上の作業」の関係である。地域研究で有益な成果をあげるためには、両者の間に有機的な連関が必要と考える。第二は「フィールドワーク」の実践論である。調査を実施する際に研究者はどのような点への配慮が必要なのか。そうした実践論の部分こそ、経験の体系化と世代間の継承が必要であると考える。そこで本報告では、フィールドワークの実践論において検討されるべき点は何かについて、自らの経験や失敗談なども交えて考えてみたい。
質疑応答・討論
異質なものをつなげるセンスをどのように身につけるか
- 地域研究では、他の人が編み出した手法を別の地域にそのまま適用して事例研究することが積極的に評価されないような印象を受ける。
その手法を用いることの妥当性を検討した上で用いるのならば問題ないはず。批判的な反応があったとしたら、他人の手法をそのまま用いたことではなく、異なる地域で通用した手法を別の地域に適用する理由付けが明確にされていない点が批判されたのではないか。手法があるからそれを適用してみるというのではなく、解決したい課題があってそのために適切な手法を見つけるというのはみんな行っていること。(山本)
- 異質なものをつなげるセンスをどのように身につけるか。おもしろい研究をしている研究者を招いて着想について話を聞く機会を作るのがよいのではないか。
他人の着想を聞くこと自体に反対するつもりはないけれど、他人の着想をそのまま真似してもおもしろいものが出てくるとは限らない。おもしろい研究をしている人がいるのであれば、多少の深読みや思い入れを交えながら、その研究のどこがどうおもしろいかとか、その人物はどんなつもりでその研究をしたのかといったことを何人かで読み解きあう方がいいのではないか。それが説得的であれば本人の考えと一致している必要はないので、本人を呼ぶ必要はないということになる。(本人も気付いていない場合もある。)(山本)
地域研究の成果は作品なのか
- この研究会の議論は「地域研究の成果は作品である」という方向に向かっているのか。
どこかで誰かによって作られた手法を別の地域にそのままあてはめて出てきた結果を記述しても、それ自体は地域研究の成果として認めにくい。この点を強調すると、「作品論」として理解されてしまうかもしれないと思う。しかし、地域研究を伝統芸能や芸術作品と同じものと見る方向に向かうつもりはない。「地域研究」が確立しているかどうかはともかく、すでに何らかの形で地域研究を行っている人はたくさんいるのだから、それぞれが用いている手法を抽出して記述することは可能だろうと思う。この研究会ではそれを試みたい。(山本)
これまでの地域研究では「地域研究の成果は作品である」と考えられていたと理解している。しかしこの研究会では、現状では作品としてしか提示されない地域研究の成果を、手法として記述できる部分を明らかにすることと、従来の学問分野ではできなかった研究上の特色を示すことにより、地域研究の可能性を議論したいと考える。(柳澤)
- この研究会の議論は「地域研究は何でもあり」という議論に向かっていくのか。
1つの正しい地域研究のあり方を求めるわけではないという点では、「地域研究は何でもあり」という言い方と共通する部分がある。ただし、それぞれの地域研究者がばらばらな方向を向いた「何でもあり」なのではなく、たとえ明示的に言語化されていないにしても、多くの研究者が共有する課題群のようなものがあり、それに取り組んでいるという意味では何らかのまとまりがあると考えている。そのような問題群を取り出し、どのような答えが試みられてきたかを狭義の研究者以外の読者にもわかりやすい形で示す方法を考えたいと思っている。(山本)
自分がしていることは地域研究でないという意識が強い
- 自分がしていることは地域研究かと考えると、そうではないという意識が強い。
「自分は地域研究者か」と自問したとき、そうであると積極的に答える人はとても少ないだろうと思う。ただし、特定の地域を事例として研究を行っている人はたくさんいるので、現実として何らかの形で「地域研究」を行っている人はたくさんいる。そのどちらを対象とするかの問題。広い範囲で「地域研究」と呼びうるさまざまな人たちがどんな手法を使っているのかを持ち寄ってみようというのがこの研究会の目的。だから、「自分は地域研究者か」という問いを立てたり、その問いに「私は地域研究者ではない」と応じたりするようなやり取りが出てくること自体が、この研究会の目的に照らして適切でないかもしれないと思っている。(山本)
地域研究にはどんな「道具」があるのか
- 手法は道具だというたとえがあったが、これから地域研究をする人はどんな道具があるかを知っておく方がよい。
地域研究に使える道具はたくさんある。1人の研究者が生涯にすべての道具を使いこなすというのはあまり現実的でないが、それでも少なくとも主要な道具について、どんな人がどんな目的でそれらの道具を磨き上げてきたのかを考えることには意味があるだろう。また、これから作りだす道具のあり方も考える必要がある。この研究会で地域研究の道具を作るとすれば、おそらくリーディングリストのような形をとることだろう。その場合に、地域ごとに基本書をまとめるのか、主題ごとに基本書をまとめるのかなど、まとめ方から検討する必要がある。これはとても難しい問題だが、最終的な結論が得られるまで待ってから道具作りを始めるのではなく、身近なところにある素材から道具を作ることから始めていきたいと思っている。(山本)
地域研究では反証可能性をどう考えるのか
- 地域研究では反証可能性についてはどう考えるのか。
個別のデータをとるときに反証可能性を考えるのは他の学問と基本的に変わりない。ただし、地域研究では、同じデータでも見る人によって解釈が異なりうることを積極的に認めている。では、同じデータから2つの異なる解釈が出てきたときに、どちらが優れた解釈だと判断するのか。あるいは、どちらか一方が優れた解釈だとは認めないのか。これについては、研究者業界が共有している課題群に対してどのような解決を与え得るか(別の言い方をすれば、どちらの考え方の方が世の中をよりよくするか)という観点から優劣を判断するというのが私の考える地域研究の特徴。だからこそ「物語」が重要であり、既存の研究からそれを読み取る力が必要ということになる。ただし、これは他の学問分野でも実はあまり違わないだろうと思っている。(山本)
- 「ぼかしどころが泣かせどころ」というが、研究者業界で共有されている暗黙の課題があるとすると地域研究は名人芸の度合いが強まるのではないか。新規参入した人たちはどのようにして暗黙の課題に到達できるのか。
同じような立場にいる人たちで既存の研究を読みあって、ときには深読みして、場合によってはネタにするほどまで議論していけばいいのではないか。(山本)
- 各研究のぼかしどころを紹介したということは、それぞれの論文の論証が厳密になされていないということか。
今回紹介した研究の論証が厳密性を欠くと言っているつもりはない。むしろ逆で、適切な文献資料を用いているかなど、厳密に検証して議論を進めている。そのため、論文ごとの個別の課題とそれに対する答えはぼかされているわけではない。今回の報告で「ぼかしどころ」と言ったのは、個別の問いに対する議論と答えではなく、それを離れて、それぞれの研究が持つ意義(各研究者がなぜその課題を取り上げたのか)をどのように見つけるかに関する部分。手法が先にあって事例研究をするのではなく、解決したい課題があって、しかし世界全体でそれを解決することはできないため、限定された事例に絞って、適切な手法を見つけてきて事例研究する。その「大きな課題」は論文で明示されないことが多いので、どのように読み解くことができるかということ。なお、これは地域研究では必ず必要となる作業だが、地域研究以外の学問的ディシプリンでも、どうしてその手法を用いるのか、それによって何を解明しようとしているのかなどを意識しなければならない点はあまり違わないと思っている。(山本)
- 研究論文の中でぼかした部分があるとすると、それは研究成果として蓄積されないのではないか。
データを得る部分とそれをもとに論文ごとの課題に対する答えを導いている部分については、今回紹介した論文はいずれもぼかすことなく厳密に論証がなされている。したがって、それ以降の研究は、その研究が用いた資料や議論を踏まえる必要がある。この点では他の学問的ディシプリンの研究とあまり大きく変わるところはない。このことを確認した上で、論証の最後の部分でどうすべきかで見解が分かれるかもしれないと思う。可能な限り厳密性を追求すべきだが、どうしても最後まで厳密に論証できない場合にどうするか。厳密性を追求して、厳密に適用できない事例に出会ったらそのデータはとりあえずなかったことにして別の事例研究に移るのは1つの考え方で、たった1つの出会いにこだわり過ぎない点では健康的な態度だろうと思う。ただし、そうやって手法の適用範囲を狭めていったら、研究手法についての精度は高まっていくかもしれないけれど、その手法で把握できない対象が抱える問題にはどのようにアプローチするのか。このことが気になる立場では、最後の最後にはぼかすこともやむを得ないと考えるだろうと思う。どちらの方が優れているかを判断するつもりはないが、肝心なことは、ぼかしてはいけないという縛りが強くなりすぎると、その考えが研究者自身の首を絞めることにもなりかねないこと。そこまで思いつめることはないというメッセージも込めているつもり。(山本)
なぜ「地域研究」と呼ぶのか
- なぜ「地域研究」と呼ぶのか。境界性が強調されるような印象を受ける。「事例研究」などでもいいだろうと思うが、「地域研究」と呼ぶ積極的な理由はあるのか。
どうしても「地域研究」という名前でなければならないとは思わないので、他に適切な名前があればそれに替えてもいいと思う。ただし、今は「地域研究」という名前で呼んでいるので、そう名乗ることにどんな意義があり得るかを考えることに意味があるだろうと思う。「地域」というのは「世界」という全体の一部。したがって、地域と言うときには常に世界が対置されてイメージされる。ちょっと話題が離れるけれど、「人類学」という名前について考えてみたい。「人類学は村のことしか研究しない」という言い方がある。仮にそうだとしても、人類学はその村のことしか考えていないのではなく、村のことを考えることを通じて人類社会全体のことを考えようとしている。「村→人類」という図式を考えたとき、矢印の先にあるものの名前で名乗っているのが人類学。「村からの/人類を考える/学問」と言うならば、「からの」の後に来るもので名乗っている。これと同じように、地域研究は、特定の地域のことしか考えていないのではなく、特定の地域のことを考えることを通じて世界全体のことを考えている。つまり、「地域→世界」であり、「地域からの/世界を考える/研究」ということになる。人類学では矢印の先にあるものを使って名乗っていたのに対して、地域研究では矢印の元にあるものを使って名乗っているという違いはあるけれど、個別の事例を見て全体を理解しようとするとする点では共通している。「地域研究」という名前はこのことを常に思い起こさせるので、それほど悪い名前でもないと思っている。(山本)
まさに境界を強調するために地域を冠していると考える。地域研究も事例研究を主要な方法論とするが、事例研究では、どの範囲が、その事例の該当する範囲なのかがわからない。地域の境界を意識することで、事例研究で得られた理解の適用できる範囲が限定され、それにより事例研究の成果がどの程度妥当なのかを考えることができる。事例研究では通常なんらかのテーマをもっておこなわれるが、そのテーマが、該当する地域の中でどのような意味を持っているのかは地域によって異なる。たとえば現金収入の少ないA村とB村の事例があった場合、両村における現金収入の少ない理由はほとんどの場合異なる。そうした地域ごとの背景の違いが、より大きな社会システムやグローバルな影響に対する地域側の対応の違いを引き起こしていると考えるのが地域からのアプローチである。(柳澤)
「地域研究は後進国研究である」「すべてが特殊」
- 地域研究は後進国研究であり、先進国を対象とする地域研究はほとんどない。それは地域研究が先進国による後進国研究から出発しているという経緯のためで、地域研究は帝国主義の産物である。
「地域研究」と呼ばれるものの起源の1つに米国の敵国研究などがあったことは承知している。しかし、だからといって現在の地域研究がそれと同じであるとか、今後の地域研究がそれと同じものであり続けるとかいうことにはならないはず。これまでの経緯を踏まえ、同じ道をたどってしまう可能性が皆無ではないと自覚した上で、自分たちはこれからの地域研究にどのような意味を込めるかを考えたい。それを考えることなく地域研究を安易に受け入れる態度は、過去だけをもとに地域研究の現実や将来の可能性を一方的に断罪する態度と同じようなもの。(山本)
- かつては「先進国は普遍で、それを基準にアジアを斬る」という考え方があったが、それは間違っている。いまは「すべてが特殊」という考え方。だからアジアから出た理論で欧米を斬ることもありうる。
欧米の基準を機械的にあてはめて非欧米を評価することが間違った態度だということには大いに賛成。ただし、「すべてが特殊」だと認めてしまうことには抵抗がある。同じ地球に住む人類なのだから、時代や環境などによって多少の違いは現れるかもしれないけれど、おおもとの部分は同じはずだと思う。だから、「欧米社会をもとに作られた理論はもう通用しない、アジアで作った理論で欧米からの理論に対抗するべき」という主張には同意しかねる。欧米で練られた理論があるのであれば、少なくともある時代の人類社会のある部分に適合した理論だったわけだから、それは受け入れるべき。ただし、その理論は時代や地域が限定された範囲でしか普遍性が試されていないのだから、現代の事例や非欧米の事例をもとに「より普遍的」な理論に修正してみる。こうして様々な地域の研究者の協働によって人類社会全体に通用するような「普遍性がより高い」理論が練り上げられていく。その過程の重要な部分を担っているのが地域研究。アジアの理論でヨーロッパに対抗するという発想ではない。(山本)
研究対象への思い入れをどう表現するのか
- 地域研究者は対象地域や対象社会に対する思い入れを抱くだろうと思うが、それを論文でどう表現するのか。地域への愛情を研究成果に投影させてもいいのか、それとも距離を置くべきなのか。
研究論文に研究者自身の人生観や思い入れが反映されるのは避けられないこと。このことを認めた上で、思い入れや愛着を研究成果の中でどう表現するのかという問いには、不特定多数の読者に対する説得力を高める形を工夫した上で、その範囲内で思い入れや愛着を大いに盛り込むべきだと考える。今日の報告では、そのような説得力を高める工夫として、研究者業界で共有している物語を掴んでそれに対応した形で表現することの必要性を語った。自分が研究しているマレーシアでの例で言えば、国内の社会的な亀裂が大きいこともあり、国内にさまざまなコミュニティがある。そのため、特定のコミュニティに特に愛着があるとしても、そのコミュニティの利害をストレートに代弁するような研究を発表すれば他のコミュニティから受け入れられなくなる。研究対象のコミュニティだけでなく、他のコミュニティにも受け入れ可能となるように説得力を高め、その範囲内で思い入れや愛着を表現するように心がけている。実際にどのように表現するかは当面の課題。(山本)
研究方法が身に着くまでの期間をどのように乗り切るか
- 「先行研究はどれくらい読むか」「いつフィールドに入ったらよいか」といった悩みはいずれ解消されるであろうが、それまでに「それなりの時間」をすごせるだけの体力(奨学金・留学費用や立場)が必要ではないか。
その通りだと思う。したがって、学生・院生が地域研究を始める場合、「先行研究はどれくらい読むか」「いつフィールドに入ったらよいか」の判断は、その人の得意な能力を優先させればよいと考える。現場にいっても何も見えない人(文章にされたものを読まないと理解できない人)がいるのと同様に、現場を経験しないと文章化されたものが理解できない人もいる。それぞれの特性に応じたフィールドとのかかわりをもてばよい。ただし問題点は、指導教員も同様だということ。すなわち、文章にされたものでない現場のことが理解できない教員は、学生・院生に対しても、そのことを前提とした指導をする傾向がある。指導する側とされる側が意識的に、個人の特性と、対象とする地域での研究課題とをすりあわせる必要がある。(柳澤)
地域研究と比較政治のバランスをどのように取ろうとしているのか
- 自分の研究を地域研究と位置づけているか、それとも比較政治と位置づけているか。あるいは地域研究と比較政治の間のバランスをどのように取ろうとしているのか。
自分は基本的に政治学の立場から特定の地域を研究対象としており、ディシプリンとしては政治学・比較政治学が基礎にある。他方で、「地域研究」にある地域の研究へのコミットメントがあるとすれば、自分は問題によって分析対象事例となる国を次から次へと変えていくタイプではなく、特定の地域(旧ユーゴスラビア地域)にコミットしているので、地域研究の要素も強くあると思っている。オーディエンスの性格によって力点を変えることで両者の間のバランスを取ろうとしている。自分のなかでは、政治学の理論家や他の地域を研究している政治学者が聞いても理解し納得できる理論的・方法論的な基礎づけのある研究(比較政治の性格)であると同時に、同じ地域を研究する地域研究者(歴史研究者、言語学者、等々)も納得させることができるような研究(地域研究の性格)を目指したいと常々考えている。(久保)
研究会を終えて
- 研究会に参加して考えたこと
2月10日の研究会は、参加者の大半を、政治学を専門とする院生が占めたというだけでなく、彼らの研究対象がヨーロッパであったことから、研究会で出された意見にある程度の傾向が表れたと思われる。具体的な質疑応答についてここで繰り返すことはせず、ヨーロッパ研究者と名乗ることもできなくはない者として、その質疑応答を受けて考えたことをまとめてみる。
ヨーロッパの国や地域を研究対象とする場合、「地域の暗黙知」を明らかにすることなどはそもそもあまり想定されておらず、また、ヨーロッパ的な視線を相対化する、などという観点もありえないことから、ヨーロッパで地域研究といえば、どれだけその国(地域)に食い込んでいるか(言い換えれば、情報と人脈に通じているか)によって判断されることになる。それゆえ、政治学者から、「地域研究者に違和感が持たれないような研究でなければ」などと言われることがある。だが、知っているだけでは研究にはならず、また、既存のディシプリン以外の場では、研究を世に問う場が極めて少ない(数少ない場として『地域研究』や地域研究コンソーシアムの年次集会があるが、後者に関して言えば、シンポジウム形式だけではなく、もしかしたら学会のような分科会方式なども検討してみる必要があるかもしれない)。当の「地域研究者」は、隙間産業、あるいはディシプリンでは二流という自己認識を有しているかもしれない。
以上のような状況にあるがゆえに、ヨーロッパ研究(とここではひとくくりにするが、そうした分類が存在するわけではない)の中で優れた地域研究と思われるものを、勝手にリーディングガイド化してみることには、意味があると思う。ただし、「地域研究」に対する固定観念が強いと思われるので、それを相対化するような研究を含めることが肝要である。また、ヨーロッパ以外を研究対象とする人々の中にも、上に述べたような理由からヨーロッパ研究は地域研究ではないと考える人も少なくないので、その点でも、こうした作業には意味がある。とはいえ、その作業をどういう形で進めるかについては、検討が必要である。第一段階として、アンケート調査の実施なども、広範に地域研究に関する見解を知る上では有効かもしれない。(小森宏美)
- 手法が先か、課題が先か
研究を車の運転にたとえるのは安易かもしれないが、今回の研究会のことを振り返って、牛やヤギが横切るなか、穴ぼこだらけの道を15年物の車で走っていたマレーシア滞在中のことを思い出した。もし、マレーシアである町から別の町まで車で何時間かかるか調べることになったらどうすればいいだろうか。ヤギにぶつかったりエンストを起こしたり渋滞に巻き込まれたりしたら再現性のあるデータにはならない。だから条件を整える必要がある。牛やヤギが飛び出してこないように道路脇に柵を作る。道路の穴はアスファルトできちんと埋める。途中でエンストしないように新車を使う。邪魔になるといけないのでほかの車は走らせない。そうやって得られたデータは再現性があるデータとして意味がある。でも、その道をいつも車で行き来する人たちにとってどれだけ意味があるデータなのだろうか。ヤギは道に飛び出してくるものだし、数メートル先が見えない大雨が降ることもある。パンクやエンストすることもあるし、誰かがパンクやエンストで困っていたら車を停めて助けてあげるものだ。だから、「ある町から別の町まで車で何時間かかるか」という問いの立て方自体が適切なのかという問題になる。それによっていったい何を知りたいのかが問われる。車の性能なのか、その土地の暮らしのことなのか、あるいは別の何かなのか。
教習場でいくら上手に運転できても実際の道路は運転できないという類のことを言いたいわけではない。教習場での訓練は大切だ。私はマレーシアで運転免許を取り、車を運転して死にかけたことが2回ある。カーブでスピードを落とさなかったために曲がりきれず、車で土手を転がり落ちて川に沈んだこと。山道の下り坂でブレーキを踏み続けたためにブレーキが焼け切れて利かなくなったこと。2つの事故を契機に本を読んで知識を一通り身につけたが、できれば路上に出る前にきちんと教えてくれればよかったのにと思った。(実際には教習場で教えていたけれど、私がきちんと聞いていなかったらしい。それでも試験には通ったので免許が手に入った。)教習場で基礎的なことをきちんと身に付けた上で、実際の道を走り、経験を積み重ねていくしかない。どちらが欠けてもうまくいかない。
事故車の手助けまで勘定に入れるような呑気な話には付き合っていられない、それは「理屈が通じない社会」だと言って研究の対象にしないのも1つの手だろう。でも、「理屈が通じない社会で通じている理屈」もあるはずだ。考えてみれば、世界には「理屈が通じない社会」で暮らす人の方がずっと多い。その人たちを研究対象にするにはどうすればいいのか。すでにある道具を改造して使うしかないだろう。特定の社会で長年かけて磨きあげられてきた道具を改造すれば、洗練の度合いは低くなるかもしれないけれど、より多様な対象に使えるようになる。そんな改造方法を考えるのがこの研究会の目的に近い。その土地でしか通用しない道具も魅力的だが、よその土地では使えない珍しい道具をコレクションすることはこの研究会の目的ではない。磨き方はちょっと違うかもしれないけれど、今ある道具を磨いてなるべくいろいろな場面で使えるようにしようとする意味では既存のディシプリンも地域研究も同じ方向を向いているように思う。(山本博之)
参加者アンケート
1.所属・立場・年齢
- 所属
早稲田大・政治学(5)
東京大学・法学政治学(1)
東京大学・言語情報科学(1)
名古屋市立大学(1)
研究所(1)
記入なし(1)
- 立場
博士課程(4)
修士課程(1)
大学院生(1)
学振DC(1)
助教(1)
教員(2)
- 年齢
20代(7)
30代(3)
2.経歴
3.この研究会についての情報をどこで得たか(複数回答可)
- 教員から紹介されて(4)
- 地域研究コンソーシアムのメルマガで(3)
- 友人・知人から(2)
- 比較政治領域のMLで(1)
4.どのような関心から研究会に参加したか
- 政治学と地域研究の関係(差異や共通性や方法論的な違い)に思い悩んで。
- 自らのアイデンティティに関わる問題と考えたため。
- 専攻が比較政治学でフィールドは中央アジア、特にカザフスタン、キルギスです。普段事例として地域を研究しているので、地域研究の方法論とは何かについて興味をいだき参加しました。
- 「地域」の研究がどのようなアプローチで進められているのか/進められるべきかに関心を持ったため。
- 地域研究に方法論があるのか、あるならばどういったものかということに興味を持って参加した。
- 地域研究に特定の方法論はあるのか否か?という疑問があったため。
- 地域研究を行なっている方のお話を拝聴したいと思い参加した。
- 地域研究について他の人がどう考えているかに興味があったから。
- 早稲田大学における「地域研究」の受け止められ方。
- 地域研究をひとつのディシプリンとして確立しようという野心(またはその政治的背景)に関心がある。
5.研究会に参加しての感想
- 頭が整理された。
- 久保先生、柳澤先生の話がためになりました。
- さまざまな分野から地域研究に対する考え方・方法論のあり方について意見を聞けて、研究の視野が広まったと思う。
- 同じような問題関心を持つ人が多くいらして興味深かった。
- 地域研究を深めていくことは概念や仮説構築に繋がるということで、そんなに政治学が考えていることと違いはないのかと感じました。
- 共通性は高いとの感想。自然科学の地域研究の論証手法やインプリケーションが以外に近く、面白かった。
- 地域研究が多角的な視点から進められていること、緻密な手続きに基づいていることを改めて感じた。自分が地域研究=事例研究と捉えていることを自覚することとなった。
- 現場と先行研究の往還のなかで地域研究らしさは生まれる、だから第二報告の「先行研究はどれくらい読むか」「いつフィールドに入ったらよいか」といった悩みはいずれ解消するというメッセージはそのとおりと思う。ただその一方で、いずれ解消するまでには「それなりの時間」を過ごせるだけの体力(奨学金・留学費用や立場)が必要で、それがある環境にいる場合はそれでよいが、そうでない場合にどうするかという問題が残るように思う。
- 実践的な方法を教育することの重要性を地域研究に感じる。政治学など社会科学分野では近年それが行なわれているので。
- ある種の政治的信条を戦わせる場(作品・芸)としての地域研究というのが落としどころなのか、もしくはもっと先を見ているのか、興味深い。私たち自身が地域研究のディシプリンとしての確立に現時点では切迫した必要性を感じないが、「マレーシア」や「インドネシア」への思い入れでなく、「地域研究」への思い入れとはどういうものか?
6.地域研究について日頃感じていること/考えていること
- 自分の地域研究を他の地域を研究している人たちにどう伝えることで関心を持ってもらえるのかということを考えている。
- 地域や事例の理解と、理論への貢献のバランスをどのようにとるかなど。
- どこまでが研究対象なのか不明。「理論の普遍性」と「地域研究の特殊性」の関係。
- 新聞記事のエビデンスとしての使い方。
- 何らかのディシプリン(政治学・経済学etc.)なしで成り立ちうるものなのかどうか、やはり確たる答えを出すのは困難だと思った。
- 実証的な政治学とはいえフィールドワークを行なっているものとして、大学という殻に閉じこもりがちになってしまうのでこのようなコンソーシアムの組織・運営は大変重要だと思う。