研究会の記録(東京大・第1回研究会)
- 日時:2008年11月14日(金)
- 会場:東京大学駒場キャンパス 教養学部18号館
- 共催:東京大学大学院地域文化研究専攻・アジア地域文化研究会
内容
司会:西芳実(東京大学大学院総合文化研究科「人間の安全保障」プログラム)
話題1:山本博之(京都大学地域研究統合情報センター)
「先行研究をどう読むか――東南アジアのナショナリズム論を例として」
話題2:柳澤雅之(京都大学地域研究統合情報センター)
「地域社会の制度や文化に埋め込まれた自然環境条件を探る」
話題3:田原史起(東京大学大学院総合文化研究科)
「『半径50メートル』の地域研究――コミュニティ・スタディの可能性」
趣旨
私たちは、地域研究を学問的ディシプリンとして確立させることを目指しています。これに対して、「地域研究はさまざまな分野の研究者が集まって共同研究を行うためのアリーナである」という立場もあるかもしれませんし、「ディシプリンとしての地域研究だろうがアリーナとしての地域研究だろうが、それを冠した研究プロジェクトで研究費がとれるのがよい地域研究だ」という言い方もできるかもしれません。
こういう言い方に対して気になるのは、「では、そのように言う人たちは、もし地域研究を冠した研究プロジェクトで研究費が取れなくなったら地域研究をやめるのか、そして地域研究はなくなるのか」ということです。私たちは、仮にそのような事態を迎えたとしても、いま地域研究で行われている方法は残り、別の学問分野に何らかの形で受け継がれていくものと考えます。そのようなものとして地域研究の方法論を取り出し、次世代に継承可能な形で言葉で記述することがこの研究会の目的です。
この目的は、地域研究に携わる多くの組織や人々の協力なしに実現できません。たとえば、地域研究の学術論文の書き方や査読のしかたの検討も課題の1つですが、これには学会誌を発行している学会や研究機関に協力していただく必要があります。このように、この研究会が取り組むべき課題はたくさんありますが、この研究会の本格的な活動に先立って、まずは地域研究に関連する大学院の研究科をいくつか訪ねて、地域研究を教えたり学んだりしている現場の人たちとの議論を通じて、地域研究の方法論として何が求められているのかを考えたいと思います。
今回は東京大学大学院(駒場キャンパス)を会場に、3人の話題提供者がそれぞれの考える地域研究の方法論について試論をお話しします。ただし、この3つで地域研究の方法論が網羅されているわけではありません。重要でありながら欠けている部分が何であり、それをどのように補うことができるかなどについて、参加者との議論を通じて明らかにできればと思います。
この研究会はどなたでも参加できますが、地域研究に携わる大学院生や若手研究者の参加を特に歓迎します。
報告要旨
- 「先行研究をどう読むか――東南アジアのナショナリズム論を例として」(山本博之)
志の高い論文は、その論文が直接対象とする課題に回答するとともに、その学問分野の研究者が共通に抱えている課題への回答も同時に試みている。後者の課題は、研究者の間で共有されていることが前提であるため、個別の論文では明文化されないことも多い。しかし、この課題が読み取れない限り、それぞれの論文は個別の課題に対応している独立した論文としか読めないし、自分で論文を書いたとしても、学説史の部分には関連する文献が脈絡なくカタログ状に並ぶことになる。心を打つ論文は、よく読むと、議論に飛躍があるのではないかと思える箇所がある。実はその部分こそが著者がその論文で一番思いを込めた箇所で、「泣かせる」部分になっていることが少なくない。この報告では、東南アジアのナショナリズム論からいくつかの論文を例にとり、「ぼかしどころが泣かせどころ」の実際を味わいつつ、先行研究から隠された課題をどのように読み解くかを考えてみたい。
- 「地域社会の制度や文化に埋め込まれた自然環境条件を探る」(柳澤雅之)
地域社会の制度や文化を規定するのは自然環境条件であるというような単純な環境決定論は受け入れられないものの、ある程度の自然環境要因が影響している可能性もまた否定できない。洪水や旱魃が発生するたびに人災か天災かという議論が活発になることが示しているように、自然災害のような現象でも、自然環境要因に加えて人為的な要因が深くかかわっている。地域社会に埋め込まれている自然環境条件を相対的に理解し地域社会を総合的に理解するためには、「自然環境からみた」「生態学からみた」「農学から見た」地域社会の理解という、一方から見たアプローチではなく、よりバランスのとれたアプローチが求められる。このバランスのとれたアプローチとは、ディシプリン間、あるいは、ディシプリンと地域社会の論理の整合性をとることであり、また地域社会をより広域の社会の中で相対化することである。
- 「『半径50メートル』の地域研究――コミュニティ・スタディの可能性」(田原史起)
報告者は「地域研究者」の中では、農村社会の末端に近いかなりミクロな「地域」を相手にしている部類の人間である。なので、この報告は、ミクロな地域にどのようにアプローチしたら良いのか、という問題提起になる。ふだん、自分の研究分野としてはとりあえず「中国社会論」とか「中国農村研究」と名乗っているが、いつも何かしっくりこない違和感を覚えていて、最近になって、自分がやろうとしていることは「コミュニティ・スタディ」なのではないかと考えるようになった。具体的に言うと、報告者は中国の農村社会の中でも人口500~2000人程度の「村」をひとつの「コミュニティ」と見なして、自分の研究対象にしてきたのである。しかし「コミュニティ・スタディ」というのは大多数の方にとって、新奇な言葉かも知れない。こんにち、地域研究者の中で、あるいは農村調査に従事する研究者の中で、「自分はCSをやっている」という言い方をする人はあまりいないのではないか(少なくとも報告者はそういう研究者に出会ったことはない)。報告では、なぜ自分がわざわざ「コミュニティ・スタディをやっている」という言い方をしようとするのか、についてお話ししたい。
質疑応答・討論
コミュニティ間の横の関係については見ないのか
- 田原報告では国家あるいは行政組織とコミュニティとの縦の関係に焦点が当てられていたように思うが、コミュニティ間の横の関係については見ないのか。
コミュニティどうしのつながりは見る対象。1つの村を調査するとき、周辺の村のことも見て歩く。調査村の出身の人を研究協力者にするが、その研究協力者の親戚は周囲の村にもいるものなので、周囲の村も見てまわる。ひとつの行政村の中にたくさん集落がある場合もある。行政村ごとに分かれていることもある。ひとつの村だけでは狭くなる。面を広く取ることも重要。エネルギーは必要だが。(田原)
- コミュニティといったときに、村以外の別のタイプのもの、たとえば太極拳をやっているグループなども入ってくるのか。
地域的なコミュニティではないそのようなコミュニティがあるとして、現場のまとまりにどう影響するかを考える。H村では宗族という父系の血縁集団が発達している。ひとつの集落と血縁集団が重なる場合は集落が強いまとまりをもつ。ひとつの集落の中に対抗しあう複数の血縁集団があったときは、集落単位で見たまとまりは分解されていく。異なるレベルのコミュニティがあるときは、まとまりをめざそうとするコミュニティにとってどのような影響を与えるかを考える。(田原)
学生の立場としてディシプリンについてどう考えればいいのか
- 企画全体に関連して、論文を書くことに直面している立場から質問したい。地域研究を考えていく立場から「ディシプリンかアリーナか」という問いが出るのはわかるが、論文を書いている学生の立場としてはディシプリンをどう手に入れるかが最大の課題。今日の報告をした3人とも自分の研究方法と違っていて、どれかを選んで自分の研究に生かすとなると難しい。学生の立場としてディシプリンについてどう考えればいいのか。
「ディシプリンかアリーナか」という議論を紹介したのは、この研究会ではそれを扱わないという宣言のつもりだった。地域研究の方法論を議論すると、どうしてもこの問いが出てきてしまう。議論すると盛り上がるけれど、そこからあまり生産的なものは生まれないように思う。この研究会ではそういう議論をするのではなく、地域研究の実際の方法や手法について考えたいというつもりで紹介した。(山本)
- ディシプリンの話をしてもらいたい。自分の今の段階から自分の中にディシプリンが身に着くまで時間がかなりかかるように思う。ディシプリンについてどう考えるかを話していたのでは今の学生が直面する問題にすぐに答えがでない。すぐに身に着くディシプリンを出してもらえないのならば私たち学生はどうすればいいのか。
まさにそれを今日やったつもりだった。先行研究を読んでどのような学説史を築くかという作業は、実際に論文を書くときに使うものだ。ほかの2人の報告者も同じような話をしていた。フィールドが違うとそのままあてはめることはできないかもしれないけれど、フィールドでどう考え、どう問題に取り組むかという点では共通するものがあると思う。(山本)
学生がディシプリンをどう考えるかは、個別具体的な場で考えないとだめだと思う。あなたにとってのディシプリンは何で、それをもとにあなたの地域研究を進める上でどのような問題があるのか?(柳澤)
- 私のディシプリンは歴史学。ただし地域研究の研究科にいるので、地域研究を考慮した歴史学の手法があるのではないかと考えている。それなのに、ゼミでの議論ではナショナリズムでまとめてみろと上から言われたりして戸惑っている。歴史学と地域研究の接合点がうまく組み立てられないと最近ずっと感じている。
歴史学のプロパーで今やっていることは十分に説明できないのか?(柳澤)
- 私の場合は、文献資料を読んで、そこから何を抽出できるかをやっている。それだけでは物足りないと感じている。
何が物足りないのか。うそくさい?(柳澤)
- うそくさいというのもあるし、全体像が見えないというのもある。
資料やデータをもとに自分の議論を積み重ねていったときに、こっちの解釈も可能だしあっちの解釈も可能だとなったとき、どちらの解釈が妥当かを判断するためには、データだけ見ていてもわからなくて、その議論の先にどんな意義があるかを見て決めるしかない。その態度こそが地域研究的な態度だと私は考えている。まじめに事実を積み上げていけばやがて全体像が見えるというのではなく、意識的に探さないと全体像は見えてこない。だからそれをどうやって探すかという話をした。(山本)
形が見えない時期をどう乗り越えていったのか
- 自分は既存のディシプリンによって立つけれど、地域研究にもよさそうなものがある。それがなにかはよくわからない。そちらに行ったら歴史学からはじきだされてしまう気がする。歴史学だけやっているとうまく表現できない。でも、地域研究はいいと思った部分にどう歩み寄ってよいかわからない。そうやって形が見えない時期というのがあると思うが、そういう時期をどう乗り越えていったのか。
地域研究は幸せ。研究対象があるから。現にそこに地域があるから。そこに行って、どうなっているか見ることができる。でもそれは歴史研究でも同じこと。歴史研究の場合でも対象とする地域があって、現在のその地域に行ってみれば、自分が研究している時代の自分が研究していることにつながっているはず。現場に行っていろいろもがいているうちに結局何が問題なのかが見えてくる。問題からスタートして方法を考えたほうがいい。この問題を解くために何が必要かを悩むということで、僕も最初からディシプリンがあったわけではない。一橋大学の社会学部にいた。社会学者として社会学的理論について語れるような素養はない。中国の農村に行って、1950年代初頭の農村の末端でどのように政権が形成されたかをインタビューした。その過程で、この問題を説明するにはどうすればいいかを考えて、政治学のエリート・スタディーズとかコミュニティ・スタディーズとかいろいろやってみた。問題が先行する。やろうとしている問題が歴史学で解けるのならば、わざわざ歴史学以外のものをやらなくてもよい。ぶつかっている問題が歴史学では解けないのであれば、ほかのものをもってくればよい。(田原)
自分にあった方法をどう見つければよいのか
- 今日のような機会があって、三人三様の方法があってそれぞれ話を聞くことができれば、そこから自分の関心を持てるものを見つけてゼミを選ぶこともできるだろうが、ゼミどうしはなかなか比較しにくい。本屋で本を読むことはできるけれど、どういう方法があるかに触れる機会がもてない。
今日の3人の取りあわせはどうでしたか。もっとたくさん種類が用意してあればいろいろ選べてよかったのに選択が少なくて残念だという感じですか。(山本)
- こういう機会があるのは本当によかった。
学生時代は、ゼミの先生や先輩の顔がちらついて、こういう研究をしなきゃいけないとかああいう発表をしなきゃいけないとか思わされる面はあるかもしれない。それはありがたいアドバイスなのだけれど、とらわれすぎると自分の首を絞めることになりかねない。学会や研究会を利用して積極的によそに出かけて行ってはどうか。それを止めるような先生や先輩がいるとちょっと困ったことになるけれど。(山本)
論文を書くときどのような読者を想定すればよいのか
- 私はフィールドワークをして、いくつかの村に入って教育や進学状況の調査をしている。その成果をまとめようとしたとき、本来ならば仮説があってそれを証明するはずなのに、先にデータがあってそこから何かを導き出そうとするのは学問ではないと批判を受けたことがある。今日の報告者たちの話では、データ先行型の研究もあると言っているように聞こえた。データから何かを読み解くためにどういう方法があるのかという話とうかがった。論文を書くとき、この論文は誰に対して書いているのかわからなくなることがある。ミクロな状況を明らかにしただけにとどまらない論文を書くためには読者を想定しないといけないのだが、どのような読者を想定すればよいのかわからない。
僕も苦労していて、難しいところ。X村の話はまとまったけれど、C村のことは投稿したけれども苦戦している。欲しいデータがあってとってくるだけでは意味がないと思う。何もなくてフィールドに行くのも問題だが、ぼんやりしたものを持って現場に行く。7割くらいは現場で調整してはじめて発見できる。発見がないと意味がない。発見するところが重要。教育の調査をしているというけれど、現場で教育だけを切り取って見ているのでは意味がない。教育と経済、教育と自然環境というようにいろいろなファクターがからみあう状況をとりだすことができれば論文として成り立つのではないかと思う。さらにほかのコミュニティについても見てみて、コミュニティによって変数どうしの絡み合いかたの違いが見えてくると、研究ノートではなく論文になってくる。(田原)
先行研究をどの程度読み込んでから現場に出向くのかについて。これは若い研究者からよく出てくる質問。未熟ということではなく、研究を開始した最初のうちはそういうことを考える。だが、続けていくと、過去の課題の経験の上に次の課題が生まれてくる。データを見る前に先行研究をどれくらい見たほうがよいのか、あるいは、先行研究を見ないで行ったほうが先入観がないため現場を見たときにいろいろとわかるのか、そういう議論するのは研究を開始した初期の段階が多い。何年かたつとそういうことを思わなくなる。(柳澤)
異なる地域の研究者がどうやって互いに研究を生かしあうことができるのか
- 私はラテンアメリカを研究している。今日はアジア研究の話を聞いた。世の中にはアジアの地域研究をやっている人もいるしラテンアメリカの地域研究をやっている人もいる。どうやって互いに研究を生かしあうことができるのか。特定の地域の研究者だけの集まりではなく、地域研究者のグループがあったとき、どうやって互いに研究を生かしあっているのか。
どのような研究会を組織するかということと関わっている。自分の具体的な経験を話すと、『地域研究』という雑誌の第6号でリージョナリズムが特集されていて、その研究会に関わっていた。ヨーロッパの研究者と東南アジアの研究者がそれぞれの「リージョナリズム」について共通の問題を考え、議論してきた中間的な成果を出したもの。地域の枠を超えた研究会の試みはこれに限らず少なくない。課題ごとに複数の地域の研究者が集まる研究会もあるし、ラテンアメリカと中東で比較研究しているグループもある。可能なら研究仲間を集めてこのような研究会を組織すればいいし、そうでなくても情報を集めてこのような研究会に参加することはできる。地域研究コンソーシアムはウェブサイトやメルマガを通じて研究上の出会いを促進している。(山本)
2つある。ひとつは、地域研究のコミュニティが日本にはたくさんある。学会もある。そうした学会の特徴は500人以下の小さな学会。地域研究学界は、小さな学会がたくさんある。ゼミの中で研究しているとゼミの人の顔が浮かんでしまって自分が縛られてしまうというさきほどの話と同じように、学会のなかだけで研究していると学会のなかでだけ意味がある発言をするようになってしまう。そうすると学会ごとに特徴が出てきてしまう。地域をまたいだ研究会はやったほうがよい。またぐ道具は、逆説的かもしれないがディシプリンだ。経済学からつなぐとかがそう。その両方あると理想的だろうと思う。もうひとつ。通地域的なつながりをもったほうがよい理由は、前提としていることが違うことがわかるため。東南アジアの大陸部で都市の発展を考えると、農業的基盤に投資して発展する農村があり、その延長上に都市がある、農村と都市がつながっている。ともに発展する。都市と農村の両方を見ないとわからないし、コミュニティは連続している。ところが、他の地域では、都市の発展がそういうかたちで存在しない社会もある。土地に根ざさない社会。雨が少なく牧畜で暮らし、広範囲で家畜を使ってぐるっとまわるような牧畜社会もその一例かもしれない。ある特定の土地をベースにした都市・農村関係が存在しない点がアジアとは違う。通地域の研究会に出るとそういうところがよくわかる。だからやったほうがよいと思う。(柳澤)
具体的にどのような問題があると考えているのかもう少し具体的に教えて。(田原)
- 地域研究という問題意識を持った人が、今日の発表はアジア研究と知りながらラテンアメリカをやっている自分がやってくるという状況をどうやってつくるか。
まさにこの会がそれを促進しようとしている。さらに、地域研究関係の専攻・学部に属する教員の立場から、自分の経験を一言。たちまち可能な方法として、「地域名を掲げた授業から問題を掲げた授業へ」重点を移す、ということが可能ではないか。駒場の地域専攻の教員として、今まで実は不思議に思っていたが、それは地域割りの授業がほとんどで、「問題」割りの授業がないこと、もっと言えば指導教員の決定や修論の査読担当割り当てに至るまで、地域割りの発想ばかりで問題割の発想がないということだ。地域研究の醍醐味は、ある地域の場に身を置いて考えたときに、そこで一番問題になりそうな問題を発見して、地域の文脈からアプローチしていけることではないかと思う。しかし、ある地域において発見された「問題」は、他地域でも同様に発生していて、しかしその発生の仕方には違いがあるはずで、同じ問題を異なる地域間で相互に比較するというのが、大変に刺激になるし、それぞれの地域の問題の立て方をさらに鍛えていくことにつながるはず。そう考えると、地域名を掲げた授業ではなくて、地域から見出された「問題群」を題目に掲げて、様々な地域に関心を持つ学生に参加を呼びかける授業があっても良いわけで、たとえば「ナショナリズム研究の方法」とか、「自然環境と社会システムの連関をとうみるか」とか、それぞれの教員が地域を題材に取り組んでいる「問題」があると思うので、地域名の方は敢えて掲げずに、そっちの「問題」の方を掲げたら良いのだと思う。現地語を深く読んだりするトレーニングは、意外と他の場でも、院生同士の勉強会などでも独学できる訳なので。小生の場合、駒場キャンパスの「人間の安全保障」プログラムと地域文化の二枚看板授業であるという半ば外的な強制力によって、今年度からは院の授業題目に「中国」を掲げるのは止めていて、「コミュニティ」や「農村」という問題群の方を掲げて、そこに集まってくれる学生さんとゼミをやっている。そうすると、中国研究の学生さんのみならず、日本、台湾、フィリピン、バングラデシュ、ウズベキスタン、東アフリカなど多様な地域の農村やコミュニティに関心を持つ学生さんが集まり、方法的な部分に重点を置いて議論が出来るようになった。個人的にも、「中国の外交」などをやっている人より「他地域の農村」をやっている人と知り合いたいと思っているので、今後も当分は「中国」を掲げずに授業をやっていくつもりでいる(田原)。
この研究会がそれを促進しようとしているというのはその通り。ただし、今日の会はアジア研究の会として行ったわけではない。また、研究会にいろいろな人が来たらよいと思うが、それは誰かが命じて来させるものではなく、いろいろな研究会の情報が提供されて、興味があるものに参加するという形になるべきだろうと思う。(山本)
地域を超えた比較をするときに、通地域研究や比較研究はたくさんあるが、各地域での要素を横に並べてそのまま比較するのはだめ。ぜんぜん深まらない。地域研究でわかっているのは1つ1つの要素がもっている意味が地域によって全然違うということ。だから要素の全体像どうしを比較しないとだめ。システムとしての地域の地域間比較をプッシュしていきたい。ただしそれはちょっと難しい。うまく比較できるトピックを考えないといけない。(柳澤)
先行研究の重要なポイントをどう抽出するのか
- 山本報告では、先行研究をどう読むかというなかで、東南アジアのナショナリズム研究の重要なポイントとしてABCDの4項目を挙げていた。この4項目を抽出するときにどうやってつくったのか。
論文を読んでわからないところを、わからないなあわからないなあと思いながらわかるまで考えていくということに尽きる。自分にはわからなくても書いている人にはわかっているはずだと思って、意味が通じるとしたらどうなるかを考える。それがわかったら、今度はその考え方から抜け出して、自分の考えで同じ部分を考えてみる。その論文を書いた人はどういう主張に引っかかってそういう結論を出したのかが見えてくる。いろいろな論文を本人になりきって読むのを繰り返す。時間の問題というより気迫の問題かもしれない。(山本)
- ABCDの4項目が東南アジア研究の重要なポイントだと抽出されたが、そうであればこの4項目を否定するのはかなり難しいと思う。どこかの事例を持ち出してこの地域ではあてはまらないと言っても、いやいや違うと言われるだろうと思う。
ある程度の段階になると否定しにくいのではないかというのはその通り。それに反する事例を出したつもりでも、その枠組に入っていると解釈されてしまう。このことを東南アジアのナショナリズム論を題材にきれいに暴いたのが参考文献に挙げた西さんの論文。それはともかく、今日挙げた4つの項目は否定できないというわけではなくて、今日挙げた文献のうち終わりの2つは従来とは違う見方を試みている。「戦って相手を打ち負かして自立を勝ち取る」というのがあるとするなら、「交渉して相手の中に入っていきながらその中で自分たちの活動の余地を広げていく」というのもありではないかということ。Cに照らすとマレーシアは独立戦争を戦わなかったのでまるでダメということになるが、マレーシアの積極的な意義が認められれば、戦って相手を殺すだけでないあり方を積極的に評価することにつながる。あるいは、人はみな同じだと思って全員が連帯しなければならないという考え方があるけれど、自分と他人が違うことを認めたうえで連携することも可能なはずで、それを取り入れてABCDの4項目を修正することはできる。ある学説を乗り越えるというのは完全にやっつけるということではない。その学説が説明できていたものと説明できていなかったものをともに説明できるような見方を考えだすこと。(山本)
- ABCDのポイントがどうしてでてきたかについて、社会主義国家の建設というイメージと関係しているんじゃないかと答えていたけれど、直接的な目的がぼかされてしまうと、読みなれていない者からすると、読んだときになんでこんな言い切りをするんだろうと思ってしまう。こういったことをぼかされるということ自体についてはどう思うか。
ぼかされるとわかりにくいというのはその通り。念のために確認しておくと、議論を積み重ねている部分でぼかしているということではなく、解釈の延長上にあるものを語るときにちょっとぼかして跳んだりする。論文を書いているときには特定の問題に適用できると思っているかもしれないが、論文が持つ意味は時代や地域を越えて適用可能。特定の問題にだけ適用できるとするのでなく、ぼかしておいたほうが適用範囲が広がることもあるのではないかと思う。(山本)
ぼかしどころというのは適用可能性を広げる意味でうまく入れられればよいが、注意すべきは、ぼかしたら意味がわからなくなるような場合。ぼかしているすべての部分が泣かせどころとは限らない。地域研究だととれるデータに制限がある。あるトピックを論証するのに必要なデータセットを重要な論点のすべてにおいてきっちり揃えることはほとんど無理。データによる裏付けの強いところと弱いところがでる。そのとき弱いところをどうするのかが論文を書くときのポイントになる。みながやっている方法は、いくつかクロスチェックをしながらストーリーをたて、全体として大丈夫だろうと判断してやる。厳密に論理的に考えれば危ういところはたくさんある。その点は弱いと自覚しつつ、全体のストーリーとしてはまちがいないと自信をもったうえで書いていくことが必要だろうと思う。(柳澤)
参加者アンケート
1.所属・立場・年齢
- 所属
東京大・総合文化(6)
東京大・農学(3)
東京外国語大・地域文化(1)
政策研究大学院大(1)
記入なし(8)
- 立場
博士課程(6)
修士(博士前期)課程(3)
助教(2)
大学院研究生(1)
学振PD(1)
教授(1)
記入なし(4)
- 年齢
30代(10)
20代(5)
40代(2)
50代(2)
2.経歴
3.この研究会についての情報をどこで得たか(複数回答可)
- 友人・知人から(6)
- 学内のポスター(5)
- 地域研究コンソーシアムのメルマガで(3)
- 東大の学内MLで(2)
- 教員から(2)
- 東大のゼミMLで(2)
4.どのような関心から研究会に参加したか
- area studiesとは何か。
- 方法論について先生方がどのように考えているのか知りたかった。
- 地域研究の研究手法がどのように考えられているのか。
- 地域研究とはどんな立場をとる学問なのか、ひとつの学問として何を大切にするか(どこにこだわるのか)について知りたい(示唆を受けたい)。
- ディシプリンとしての地域研究をどう考えるか。
- 地域研究のディシプリンについて考察を深めたいと考えて。
- 地域研究の学問的ディシプリンの確立を考えた際に、現実的にどのような実現可能性(方向性)があるのかを知りたかった。
- 地域研究とはディシプリンか方法論か、多様なディシプリンをもつ人々が集まるアリーナか、その地域のことをよく知っているということなのか、といった問題に自分なりに決着をつけるため。
- 地域研究の方法論を事例研究より身につけたいという気持ちをもって出席した。
- 現在行なっているフィールドワークをどう論文にまとめていくかヒントを得るため。
- 現場の新しい方法論を知りたい。駒場で研究する仲間の研究を知る機会がないので。
- 長い目で見て方法論のマニュアルみたいなものができること。
- 地域研究方法論の提示
- 地域研究の学術界・社会における認知度を高めること
- 分野を越えた共同研究
- 個別の発表
5.研究会に参加しての感想
- 現在の研究に有益なヒントを得た。
- とてもよいコンソーシアム研究会だった。
- おもしろかった。
- それぞれの観点から多様な地域研究の形が見えた。
- それぞればらばらの地域や出身背景だが、その対象とする地域への「想い」を持つことが研究の上で大切であることが感じ取れた。
- 現場主義・現地の文脈→「えいや!」とやって→理論・解釈・説明枠組みとして新しいものを出すという「方法」という捉え方に、すっきり感を覚えた。「その地域について何でも知っている」ということでなければ「地域研究」と言えないという強迫観念があったが(というか、そういうことを言う人がいるが)、そうでなくてもいいのだと思った。「地域研究はディシプリンかアリーナか」という議論についても自身の研究にひきつけて考えてみようと思った。
- 地域研究の向かっていく方向を今後も考えたいと思った。「現地感覚を得る」ことは、フィールドワークとよばれる研究活動で得られるものなのか、それを体得していない状態でも、先行研究から空気感(現地感覚)を読み取ることは可能なのか。そうであればどういう点に留意しながら読むのか。先行研究の泣かせどころを読み取り、解釈する方法は意識すればできるようになるのか。何かコツがあるのか。といったことを考えたいと思った。
- 地域研究のディシプリンとしての確立に必要な要件についてのお話が興味深かった。もう少し具体的に何をすればよいのか考えたい。
- 抱えている疑問に対して共通認識を有している学術研究者がいらっしゃることが励みになった。
- 方法論の事例を集めて整理していくしかないかなと思った。
- 地域研究の問題点とそのよさが浮き彫りになった。双方はトレードオフの関係ではないと思う。
- 特に自然科学分野における地域研究の手法に興味を持った。
- 最後の討論は院生の悩みが聞けて面白かった。
- 現状の理解がよく深まった。
- よく勉強になったが、報告者から自分の経験を総括的に話していただければいいなあと思う。
- 各発表者は具体的な研究内容をもう少し示しながら方法論を議論するともっとわかりやすかったのではないか。
- もう少し議論の時間が多いほうがよかった。
6.地域研究について日頃感じていること/考えていること
- ディシプリンを持っている人から見ると地域研究はディシプリンがないように見えるようだが(実際そうだった)、そうではない、ということを伝えなければならないことを常日頃感じている。
- あなたの方法論は何ですか?と問われることが多い。方法論として地域研究を学んでおらず、「地域研究」を漠然と目指すものの、返事に困ってしまう。地域研究は方法論として認知されているのか?
- 事実プラスマイナス自分でディシプリンを探してこなければならず、その点については非常に大変に感じます。
- 先行研究の探し方。ディシプリンが複数になると議論が一つの文脈で語れない。
- 自分の研究成果(フィールドで得たミクロな発見の積み重ね)を誰にどのように発信していけばよいのか、誰に読んでもらうことができるのか、戸惑っています。
- 文献研究とフィールドワークをどう統合するのか、立体化するのか、考えたいと思います。
- 文系の知識で地域研究をすることの限界性。昔のこと(歴史)を研究する場合、ある一村落やコミュニティを研究する場合、文字資料やインタビューのみによる研究となると、どうしてもデータが少なく、恣意性が多くなってしまうように思います。たとえば、現在、東大の人文社会系研究科所属ですが、学内だと総合文化研究科も含め、授業、ゼミなど文字や言葉を資料にする方法ばかりで、理系の基本的知識は自習より他になく、食傷気味です。今日の研究会にいらしている方の専門の分布に興味があります。
- 地域の本質を探究しようとする地域研究の試みはすばらしいが、面白いネタ探しとそのアイディアの不完全な立証に終わっているところが残念。方法論をしっかり議論しなかったり、多くの論文や本で(日本語の)先行研究があまりない点(30以下程度)については、やはりないがしろにしているとしか思えない。いろいろな点において厳密さを求めないと生き残れないのではないか? 欧米における地域研究の方法論との関連はどのように考えるのか? いくら素晴らしい発見でも、多くの人に受け入れてもらうためにはどうしたらよいと考えるのか? その必要はないのか? 素晴らしい研究が日本国内の内輪に埋もれてしまっていることに残念に思う。
- 今、日本での地域研究ならば、日本以外の国々や地域の研究と見られていると感じている。日本という地域についての研究は地域研究ではないと主張している人が存在している。自国(母国)についての研究が地域研究ではないという理解は正しいのか。地域研究の研究書を読んだとき、文化人類学、歴史学、政治学などの他の学問の色彩が強いと感じた。地域研究の特徴は何なのか。
- 方法論の確立は必要だが、逆に先行研究→疑問点・問題提起→議論という論文の書き方を見直していっても良いのではないか?
- 今日お話のあったようなアプローチで地域研究をしていく人が増えていくことを切に希望します。私もがんばります。
- どこまでを地域研究として考えるものなのかなど。
- それって方法論なの?