プラハからの手紙
亀山恵理子 (2017.2.14)
Surat dari Praha
監督:アンガ・ドウィマス・サソンコ
2016年/インドネシア・チェコ/97分
『プラハからの手紙』はチェコのプラハを舞台に撮影されたインドネシアの映画である。主人公の女性ララサティとプラハで出会う男性ジャヤとの交流が、美しいプラハの町並みの中で描かれる。また、作品ではインドネシアのシンガソングライターであり、音楽活動を始めて20年目を迎えたグレン・フレディの歌が多用されている。
本作品の監督であり、プロデューサーでもあるアンガ・ドゥウィマス・サソンコ(Angga Dwimas Sasongko)は1985年生まれの若手監督である。21歳であった2006年に最初の作品を発表して以来、本作品を含め9作品を生み出している。インドネシア映画祭では2010年に『アマンダの日』(Hari untuk Amanda)、2015年に『珈琲哲学』(Filosofi Kopi)で最優秀監督賞にノミネートされている。
プラハでの出会いから母と自国の歴史を知る 主人公の女性ララサティは、病で亡くなった母スラストリからの遺言書に書かれてあるとおり、母が残した木箱をもってプラハに住む男性ジャヤのもとを訪れる。だが、ジャヤはその木箱をどうしても受け取ろうとしない。ララサティは、母とジャヤの関係、またジャヤが1965年に起きたインドネシアの政治的変化によって、国に帰れなくなったことを知る。政府の公式見解では共産党のクーデターとされる「9月30日事件」(1965年)は、その後数十万とも百万とも言われる人びとの虐殺を伴ったが、今日に至るまで事件の全容は明らかにされていない。 当時留学で国外にいたインドネシア人の学生たちは、初代大統領スカルノに代わって政治的権力を手に入れたスハルト政権に忠誠を誓う書面にサインするよう求められた。だが、ジャヤはサインしなかったためインドネシアに帰れなくなった。それから20年経った後、ジャヤは最愛のスラストリに手紙を送り続けたが、返事がくることはなかった。ララサティはジャヤの話を聞くことで、夫との関係がうまくいかず、家の中では自分の部屋に閉じこもっていることの多かった母のことを理解しはじめる。また、ララサティはジャヤを通じて、ジャヤのように1965年の政治的混乱以降チェコで生きていかざるを得なかった人びとの経験も知る。 スハルト政権時代の負の遺産に向き合う作品 インドネシアでは1998年に32年間続いたスハルト政権が退陣した。「開発」をスローガンとして掲げたスハルト政権期が終わり、以来「改革の時代」といわれる時代が続いている。「改革の時代」においては民主化がすすめられる一方で、インドネシアはスハルト政権時代の負の遺産に向き合うという課題を抱えている。1965年に起こった9月30日事件の真相究明と社会に生じた亀裂の修復はそのひとつである。 「この作品によって当時を知らない世代が、政治的な理由からインドネシアに帰れなくなった人びとについてより知ることを期待している」とアンガ監督は述べている。監督自身、スハルト政権が退陣した年には小学生だった。昨年は、ヨセップ・アンギ・ヌン(Yosep Anggi Noen)監督が『ソロの孤独』という今日にいいたるまで行方不明となっている詩人でもあり、民主活動家でもあるウィジ・トゥクルを取り上げるドラマ作品を発表した。「スハルト政権時代をあまり知らない世代」の監督たちが、インドネシア社会の負の遺産に向き合い、社会の変化の一翼を担おうとしている。